木曽路の旅


( 岐阜県  平成28年10月15〜16日 )

 名古屋で中央線"ワイドビューしなの"に乗り換えて中津川着き、駅前のバスターミナルでバスに乗って30分で着いた所が馬籠。

 中山道69宿のうち木曾谷には11の宿場が置かれていて、馬籠宿は江戸板橋から数えて43番目の宿場であり、江戸からの距離は83里(333km)です。
 木曽駒ケ岳から連なる山と木曽御嶽山の間を流れる木曽川に沿って街道が通っていて、その斜面の地に石垣を築いて建物が造られて馬籠宿が形成されている。

 


 馬籠宿は斜面の土地にあるため水に恵まれず火災が多かった。古い町並みは明治28年(1895)と大正4年(1915)の大火で消失してしまい、現在の建物の多くはそれ以降に建てられたものである。










 馬籠は、明治の文豪 島崎藤村が生まれ育った地。藤村の代表作とも言える「夜明け前」は次の書き出しで始まっている。
「木曽路は全て山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」
 馬籠宿はまさにそんな地に開かれた宿場であった。










 かっては穀物を挽いて粉を作っていた水車が復元されている。現在はこの水車を利用して小さな水力発電を行っていて、この宿場内の照明などに活用されている。











馬籠宿の坂を上りきった所が陣場と呼ばれる地であり、ここに江戸時代の高札が忠実に復元されている。正徳元年(1711)に幕府からの定め書きを書いたものであるが、あまりに達筆で全部を読み切れない。
 
 一、親子、兄弟、夫婦・・・・・萬事其分限に過べからざる事
 一、博奕の類一切に禁制の事
 ・
 ・
 一、喧嘩口論をつつしむ事
            正徳元年五月  奉 行
  






 高札場の脇を通って中山道は妻籠宿へと街道が続いている。妻は2時間余りの道を歩いて行ったが、膝の具合が芳しくない私は高札場のすぐ近くにあった陣場バス停から妻籠宿までバスに乗った。
 妻籠の街並みは馬籠ほどに観光地化されてなくて昔の面影を残していて、夜になると灯りが灯されて往時の面影を漂わせている。






 この日は妻籠宿の収容人員20人の小さな宿"旅館・藤乙"に泊まった。藤乙は江戸時代の庄屋の屋敷を改装して旅館にしているそうだ。そんなことが外国人に人気があるらしく宿は英語・フランス語対応だそうで外国人に人気があるそうだ。この日の宿泊客は我々夫婦のほかは欧米人ばかり10人ほどで、英語、フランス語が飛び交っていた。
 夕食はこの辺りで採れるものが並んでいて、女将さんや女性スタッフが食材の説明をしてくれるのが良い。
   


詳細 ⇒ 妻籠宿



 翌日は、膝の痛みが幾分癒えていたので旧中山道石畳の道歩き出した。この旧道では中国人や韓国人は見かけなかったが、欧米人のカップルに何組か行き交った。彼らはこの石畳の旧道を歩いて江戸時代の旅人の姿をどのように思い浮かべたのだろうか。
 1時間ほど歩くと舗装道路になり南木曽駅に着いた。


南木曽宿は南木曽駅から近かった。
予期したことだったが、観光客で大賑わいだ。
石畳の旧道では見かけなかった中国人や韓国人が多い。








 奈良井宿の中ほどに"御櫛所 中村屋利兵衛"と大書した建物が建っている。この建物は江戸時代末期の1830年頃に建てられた奈良井の町屋の典型的な切妻屋根の出梁造り建物で、中村屋は塗り櫛の問屋を営んでいた商家です。 現在は塩尻市の文化財に指定され資料館として内部が公開されている。

 昭和40年代にこの建物を川崎市の日本民家園に移築するという話が持ち上がったが、奈良井の街並みを残そうと住民が考えるきっかけになった建物です。それ以後住民の意識が高まって街並み保存の運動の大きな弾みになったと資料館の人が説明してくれました。
 


詳細 ⇒ 奈良井宿



奈良井宿を散策してから、再び中央線で塩尻へ行き特急「あずさ」で帰ってきた2日間の木曽路の旅でありました。



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