旅のつれづれに

あちこち旅をして、そこで見たこと聞いたこと、そして感じたことを旅先で書き留め、それを読み返して加筆修正しています。

 
       大腿骨骨折  屯田兵の孫
 3,333段の石段  済州島の居酒屋  利尻島の漁師  消えた町   愛媛の段々畑
 離島の学校  ポカラの郊外で  講演会  キリマンジャロ  佐世保の警官
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大腿骨骨折
 以前から左足太ももに炎症を起こしていて左足をかばいながら歩いていたが、遂に転倒してしまった。2019年11月2日自宅近くの市道でのことだった。通りがかった若者に助け起こされ妻あてに連絡してもらった。早朝7時だったが近所の人も出てきて救急車を呼んでくれて川崎市立病院へ運ばれた。レントゲンを撮ったところ左大腿骨骨折だった。この手術では定評のある慶友会第一病院へ入院することになった。
 運悪く3連休にかかっていて手術日は6日に決定した。



屯田兵の孫
 昔、高校時代に日本史の授業で屯田兵について学んだことがあった。明治時代初頭に北方警備と北海道開拓のために北海道各地に屯田兵の兵村が置かれていたが、札幌・旭川等各地に資料館がありそこには当時の備品や写真パネルが展示されていた。そんな中でオホーツク海沿岸の湧別町の資料館の職員が厚岸に現在でもその兵屋が残っていることを教えてくれた。

 カキの産地として名高い北海道東部の厚岸の町で、厚岸郊外の太田屯田兵屋にカーナビをセットして車を走らせた。道道
14号厚岸標茶線から未舗装の農道に入ると前を軽自動車がノロノロと走っている。急ぐ旅でもないのでこの軽自動車の後ろをくっついて行った。なんと、軽自動車は私が目指している屯田兵の兵屋(屯田兵の宿舎)の前で停まった。軽自動車を運転していたのは兵屋を管理しているかっての屯田兵の孫だった。
 明治時代、北海道の開拓と北方警備のために明治政府は北海道内各地に屯田兵の兵村を置いたが、厚岸湾の沿岸部から15キロ程の太田地区にも明治23年に兵村が置かれ440戸の兵屋が建てられた。この太田兵村には日本海沿岸の小藩の元武士とその家族が入植していた。この兵屋は屯田兵が暮らす宿舎として標茶集治監督(刑務所)の囚人によって建てられたもので、17.5坪の木造平屋建てで、土間及び六畳と四畳半の2部屋と居間・台所・便所からなっていて居間には炉が設けられていた。
 大正時代になって屯田兵の制度は廃止になり、その後は元屯田兵の住宅として使用されていた。軽自動車を運転していた92歳の老人はこの家で大正9年に生まれここで育った。
 老人は兵屋に入って内部を案内してくれ、彼の祖父が明治時代に屯田兵として入植した当時のことを話してくれた。老人のお爺さんが入植した頃はこの辺りは未開の原野であり、原野の大木を引き抜くのに木の根っこを馬に曳かせて引き抜いていたとそうだ。そして、大正生まれのこの老人も学校まで1時間かけて通い、明治・大正時代に開拓されたとはいえそれは兵屋の周りのわずかな範囲であったので、学校から帰ってからは原野の開墾をするなど過酷な少年時代を送ったのであった。昭和になってわずかな機械力が入り徐々に周辺は開墾されて耕地面積が徐々に増えていった。

 明治37年に屯田兵制度が廃止になった後も、兵屋は住宅として使用され続けていたが、その後昭和になってから老人の家族は隣に新しい家を建て兵屋は物置小屋として使っていた。その後、住宅は何回か建て替えをしたが兵屋は相変わらず物置小屋として使っていた。
 昭和46年に厚岸町役場からこの兵屋を譲り受けたいとの話があり、老人はこの物置として使っていた元兵屋を町に譲り、厚岸町はこの兵屋を解体し、同じ場所に復元して北海道指定の有形文化財として一般に公開していて、老人とその家族が管理している。
屯田兵の孫と兵屋 兵屋の全景 兵屋の内部

2010.9.13  旅のつれづれトップ



済州島の居酒屋
 このところ、日韓関係がギクシャクしている。元の良好な関係に早く戻ってもらいたいものだ。
 まだ日韓関係が友好だった頃に、韓国最南部の済州島(チェジュトウ)のハンラ山に山仲間と3人で山登りに行った。この山は韓国最高峰の山で韓国人には人気のある山で、韓国人は一生に一度は登りたいと思われている山だ。2日前に降った雪で山頂は一面の雪景色だったが大勢の登山者で賑わっていた。

 下山してから旧済州の東門市場に行ってみた。済州島は海に囲まれているので市場には新鮮な魚介類が並んでいて、生きた魚も水槽で泳いでいる。
 市場の一画に居酒屋があったので入ってみると、この店は若い夫婦が二人でやっている店だが、この店には形ばかりに家庭用の小さな冷蔵庫があるが業務用の大きな冷蔵庫がない。メニュウらしきものがあるがハングル文字なのでよく分からない。身振り手振りでやってみたが埒があかない。すると店主は携帯電話を取り出して何か喋ってから電話をこちらによこした。電話の声は年配と思われる女性の声で、食べたいものや飲み物を告げてから電話を店主に戻すと店主はなにやらその女性喋っていた。つまり、このお婆さんは通訳のようなことをやっていたわけだ。
 その後、店主は表に出て行き妻が飲み物と白菜や椎茸などのキムチを出してくれた。暫くすると店主がビニール袋を下げて戻って来て、袋から赤アマダイ・ヒラメやアワビなどを取り出して調理を始めた。店に大きな冷蔵庫がない理由が分かった。表に出れば周りは魚介類や野菜の市場なのだ。出てきたものはどれも新鮮で美味しかった。
 店主夫婦とハングル語会話集を見ながら身振り手振りを交えて会話していると中年の男女4人がビニール袋を下げて入ってきた。店主はその袋を受け取ると魚を取り出して調理を始めた。4人組のうちの1人が日本語が堪能で、客が食材を持参してお店がそれを調理するというこの店のシステムを教えてくれた。

 翌日済州島の観光をしてから、夕方前日に行った市場の居酒屋へ再度行ってみた。この日はこの店のシステムに従って市場で買い込んだ魚介類をビニール袋に入れて店に入った。店主はすぐに調理を始め妻は飲み物を出してきた。この日はハンラサンという銘柄の焼酎を少しだけ飲んで主にマッコリを飲んだ。マッコリは韓国の濁り酒でほのかな酸味と甘みがあってのど越しがとても好い。
 2
日目に市場で買い込んだ魚介類が23,000ウォン、それの調理とお酒代が25,000ウォンであり、1,000ウォンが120円だったので〆て 5,800円だった。3人でこの値段はとても安かった済州島の居酒屋探訪でありました。
市場で魚の買出し 居酒屋の夫婦
2010.8.26  旅のつれづれトップ



離島の学校
 北海道西部の羽幌の港で乗ったフェリーは小一時間で天売島に着いた。天売島(てうりとう)は羽幌町の沖合い30キロの日本海に浮かぶ周囲12キロ、人口380人の小さな島です。

 港から自転車で少し走ると「天売小中学校」の標識が立っている。標識は小中学校になっているが、いわゆる小中一貫校ではない。校門から見た学校の玄関には左側に天売小学校の校名と校章が掲げられていて、右側には天売中学校の校名と校章が掲げられている。授業中の時間なので校内に入ることは出来なかったが、生徒は小中合わせて19人といたって少ない。校長先生は小学校長と中学校長を兼務しているが、教員はそれぞれに配されている。学校が大変大きく立派なのは給食センターや地区の集会所などの公共施設が併設されているからだ。
 学校入口の道道548号天売島線にはこの島唯一の信号機が設置されている。車の通りはほとんどないのだが、子供たちが本土に行ったときに戸惑わないようにと設置されている。この島の人たちは北海道本島のことを”本土”と言い、本州のことを”内地”と言っている。島を離れるときに立ち寄ったフェリー乗り場前の土産物店の店主は、信号機が設置されたのは「私が交通安全指導員をやっているときでした」と言っていたが、こんな島にも交通安全指導員がいることに妙に感心した。        
     
  天売小・中学校   天売島唯一の信号機 

 小中学校から少し行くと天売高等学校があった。校門前で写真を撮っていたら若い教師が校舎から出て来て「中を見ませんか」と言って、校舎内を案内してくれた。この学校は羽幌町立の定時制普通科の高校であり、生徒はわずか6人だが教科ごとに先生がいるので生徒より多い10人の教師がいる。
 教師は先ず職員室に連れて行ってくれた。夕方から始まる授業の準備で3人の先生が登校していて一斉に視線を向けてきたが、先ほどの若い教師が事情を説明してくれる。
 小さな高校だが一通りの設備が整っている。教室に入ると教壇の前に生徒の机が1つだけで、これではまるでマンツーマンの家庭教師の授業を受けているようなものだ。教師はパソコン教室にも連れて行ってくれた。パソコン教室は生徒全員が一緒に授業を受けるのでデスクトップのパソコンが8台もセットされている。体育館には卓球台とバドミントンのネットが張られていて、バドミントンは道内でも結構強いそうだ。だが、バレーボール等の大勢でやるスポーツの設備はないそうだ。
 
  天売高校の正門 教壇の前に生徒の机が一つ
 来春には4人の生徒が卒業するが新入生がいない。でも、その翌年には新入生が1人ありそれ以降も新入生がポツポツありそうなので、当面は学校が存続すると島の人は安堵している。
 過去には生徒がゼロになりそうになり、「その時は”奥の手”を使ったんだ」と島の人は言っていたが、”奥の手”は高齢で現役を退いた元漁師が入学して学校を存続させたようです。
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ポカラの郊外で
 ポカラは首都カトマンズから国内線の飛行機で30分のネパール第2の都市で、ヒマラヤのアンナプルナ(8091m)山群を間近に眺める人口40万人の町です。
 ポカラ郊外のホテルに3連泊して、ホテルのレンタル自転車を借りて地図を片手に町を散策した。ポカラの街は交差点が〇〇チョーク・△△チョークといった風に名前が付いているので道に迷うことは無い。道路は舗装されているが車道にはハンプが施されているので車は嫌でも減速する。そして、テロ防止のためかいたる所で銃を持った兵士が検問をやっている。
 交差点で地図を見ていたら兵士が近寄ってきて、何か言っているのだがよく分からない。「I am japanees toraveler」と言ったらどうということは無かった。彼らの持っている銃を至近で見たら素人目にも貧弱な銃だった。

 お菓子や酒・タバコを売っている小さなお店に入ってみた。その店には若い夫婦と男の子がいた。ワインを1本買ってからネパール語会話集を片手に男の子と会話。
  「タバインコ ナーム ケホ?」(名前はなんていうの?)・・・・ 「〇〇〇〇」
  「カティ バルサコ フヌボ?(何歳ですか?)・・・・  「ダス」(10歳)
 父親はネパール語と共に流暢に英語もしゃべった。店先でマイルドセブンに火を点けようとしたら、「ネパールのタバコと交換してくれ」と言うので物々交換。ネパールのタバコはあまり美味しくなかった。
 そんなことをしている時にお客さんが来てタバコを3本買っていった。 (3箱ではない)

 ホテルの近くを流れる小川の脇の道を進むと、やがて建物が疎らになり畑が広がってきた。さらに農道のような道を進むとおばあちゃん、母親、孫と思しき3人連れに行き会った。
 「ナマステ」(こんにちは)と言うと、親子は「ナマステ」と応えてくれた。
 身なりや、足元を見るとゴム草履のようなものを履いていて、生活はちょっと貧しそうだ。孫に持ち合わせのお菓子をあげると、「ダンニャバード」(ありがとう)と言って美味しそうに食べた。
 「モ ジャパン バタ ガエコ」(私は日本から来ました)と言うと、私のたどたどしいネパール語が通じたようで、おばあちゃんと娘がうなずいた。
 「タバインコ フォト キツナ サクツウ?」(写真を撮ってもいいですか?)  娘がにっこり微笑んでOKしてくれた。
 撮ったばかりのデジカメの写真を見せてやると、身振り手振りで「欲しい」と言う。私も身振り手振りで「日本に帰ってから郵便で送ると言って、住所を書くようにと紙とペンを差し出した。でも、娘が両手で「×」印を示した。
                 
 ホテルに戻ってから、このことをネパール人のガイドに話したら、「娘の年齢から推し測ると字は書けるだろう」 「多分、郵便を受け取るハウスNoがないのだろう」とのことだ。
 ガイドは「写真に写った親子の印象から察すると、この人たちは一生のうちに自分の姿を写真で見ることはめったにあることではないと思う」  「私はポカラへは度々来るので、今度来たときにこの親子を探してみる」と言うので、帰国してからガイド宛てにこの親子の写真を郵送した。

 それから3ケ月が過ぎてガイドからメールが来た。メールには「ポカラに2回目に訪れたときに親子を探し出して、写真を手渡したら大変驚き、そしてとても喜んでいた」と書いてありました。
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愛媛の段々畑
 「太陽が三つある」。愛媛県の沿岸部にはそんな言葉がある。太陽そのもの、海面からの照り返し、段々畑を形作る石垣の反射。
 2012年秋に四国八十八ケ所お遍路の旅をした。その道すがらちょっと寄り道して、愛媛県西部に海辺から急傾斜の斜面に造られている段々畑がある集落を訪れた。
 宇和島市の市街地から車で40分ほど走った宇和島湾に面した遊子水荷浦(ゆすみずがうら)という小さな集落がある。ここにペルーのマチュピチュを彷彿させるような段々畑が広がっている。急傾斜の斜面に等高線に沿うように小さな石を積み上げてひな壇状に段々畑が造られていて、この地方ではこの段々畑を段畑(だんばた)と呼んでいる。 段畑は幅1.5m、高さ1mで整然と並んでいて最上段までは6〜70段もあり、下を見下ろすと海がキラキラ光っている。
 段畑の最上段まで上がって行ったら、段畑を見下ろすように墓地があり、子や孫が段畑をちゃんと耕しているか見守っているかのようだ。この急傾斜の段畑で石垣の補修をしている人がいて、「放っておくと浜風で石垣は緩むし雑草が生えてくるので時どき手入れをしている」と言っている。段畑の維持も手間がかかることのようだ。
 段畑を降りてきて周辺を散策していたら、この辺りでは見かけないような雰囲気の女性に出会った。化粧っ気はないが明らかに都会暮らしの雰囲気を醸し出しているこの女性は上品な口調で、
   「夫の定年退職を機に神戸から移住してきたんですよ」
   「”終の棲家”としての地をあちらこちら探したんですが、ここが一番気に入ったんですよ」
   「気候が温暖で魚も新鮮で美味しいし、遊ぶ子と書いて”遊子”(ゆす)と読む地名、そしてなによりここの景観が気に入ったんですよ」
 そして、「夫の海外赴任で10年ほどドイツやフランスで暮らしていた」とも言っていました。

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消えた町
 北海道にはかっては賑わっていたが鉱山の閉山や離農で人が離れて無人になってしまった地区がいたる所にある。2010年夏にそんな中からにオホーツク海沿岸の2つの消えた町を訪れた。

@ オホーツク海沿岸の紋別市街地から道道305号線を旭川へ向かって40キロ程走って行くと、原生林の中に大変大きな煙突が立っている。煙突は鉱山の精錬所の煙突だ。ここはかって鴻之舞(こうのまい)鉱山があった所で、道路脇には「鴻之舞鉱山跡」だとか「鴻之舞小学校跡」の碑が立っているだけで辺りには人は誰もいない。
 ここから10キロほど紋別へ戻った所に「上藻別駅逓資料館」がありその一画に「鴻之舞鉱山資料館が併設されているので行ってみた。父親が鉱山で働いていたという初老の男性がいて詳しく教えてくれた。
 大正時代初頭に鴻之舞で金が発見され、その後大正6年に住友金属工業が本格的に金や銀の採掘を始め、鴻之舞はゴールドラッシュに沸いた。最盛期には従業員4,600人、15,000人もの人が住み、市役所出張所、小中学校・郵便局・病院などがあり、そして映画館やパチンコ屋さらに遊郭もあったそうだ。
 もう少し話を聞きたくて翌日再度鴻之舞資料館に行ってみたら、別のボランティアガイドの男性がいて、道道から奥に入るカギを開けて原生林の中を案内してくれた。原生林には鉱山の入り口や精錬所の朽ちた建物や幹部社員の住宅が残っている。ガラス越しに見た社員住宅には昭和の雰囲気が感じられるちゃぶ台などの調度品が残っている。この辺りにはこんな建物が10数棟あったが1棟だけを残して他は全部撤去したとのことだ。
 あんなに栄えた鴻之舞も、昭和40年代になると金・銀の採掘量は徐々に減少し、ついに昭和48年に鉱山は閉山して、人々は皆この町を去り町は無人になって、町はゴーストタウンと化した。
 その後、三菱金属は道道30号線沿いの会社の建物や学校・住宅など建物を全て撤去した。残されたのは大きな煙突と「鴻之舞鉱山跡」、「鴻之舞小学校跡」の碑と「喜楽町」、「金竜町」、「栄町」などの町名の立て札がたっているだけである。
 そして、50年が過ぎて鴻之舞は元の原生林に戻り、町は消えた。

A 紋別から北へ40キロ弱の雄武町、さらに西へ30キロ程走ると雄武町上幌内(かみほろない)という集落がある。小学校・中学校の門柱と雑草が生い茂った校庭があるが校舎はない。付近には今にも倒れそうな家が点在している。無論辺りには人の気配は全くないが、電柱は施設されているので電気は通じているようだ。上幌内郵便局と書かれた建物があり、呼び鈴があって「御用の方は押してください」と書いてあるので押してみたが何の応答もなかった。
 
 この集落のことをもっと知りたくて、雄武町の中心部に戻って役場へ行ってみたら、総務課の年配の職員が詳しく教えてくれた。
 上幌内は明治時代の末に開拓が始まり多くの入植者があって、大正時代の初頭には小学校や中学校も開校した。その後多くの農家が住み商店も出来て郵便局も開局した。だが、昭和から平成に変わる頃からポツポツと離農者が出て、学校は平成2年に閉校した。そして、つい数年前には最後の1軒がこの集落を出て現在は無人になっていて、北海道電力はこの地区への送電を停止したとのことだ。
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利尻島の漁師
 2005年9月に日本百名山の一つである北海道・利尻岳に登り、下山してから海辺の民宿に泊まった。夕食までに間があったので海岸を散歩すると、番屋と呼ばれる漁師の作業小屋の前で高齢の漁師が漁具の片づけ作業をしていた。
 声をかけたら手を休めて、ウニ漁やコンブ漁のことを話してくれた。そして、アザラシはウニやコンブを食い散らかすので漁師にとっては天敵だとも言っていた。写真を撮っても良いかと聞いたら快く応じてくれ、ちょっと緊張気味に”きをつけ”をしたいい顔をした老漁師だった。
                      
 それから5年が過ぎて、2010年5月に利尻島と礼文島を訪れた。今度は離島でゆっくりするのが目的だったので1週間ほど離島でのんびり過ごした。
 利尻島ではキャンプ場に3日間泊って自転車で島を一周したりウニやイクラを食べ、日本海に沈む夕日を写真に撮ったりして過ごした。
 そんなある一日、5年前に写真を撮った漁師を探しに行ってみた。名前は聞いていたが住所は聞いていなかった。何軒か商店が並んでいる一軒のお店に入って高見(仮名)さんの家はどこかと尋ねたら、高見姓の家は何軒かあるらしいので高見さんの写真を見せると、ちょっと口篭もったが家を教えてくれた。
 教えてもらった家へ行くと奥さんが出てきて「主人は2年前に亡くなりました」と言う。写真を撮った経緯を話すと、そんなことがあったことを主人が話していましたと言う。この写真を撮った数か月後に肺ガンが見つかり札幌の病院で手術をしたが、その2年後に80歳で亡くなったとのことだ。少し大きめにプリントした写真を見て、「まだ元気だった頃の最後の写真になります」と言って深々と頭を下げられた。
 「なにかの縁なのでお線香を・・・」と言って仏壇のある部屋に通された。仏壇の前に座りお線香を手向けて手を合わせて写真を仏壇に供えました。部屋には高見さんの遺影が飾ってあり、写真に写った高見さんはちょっと笑っていて「よく来てくれなたー」と言っているようでした。
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3,333段の石段
 熊本市の南30数キロの美里町に石段の段数が日本一だと言われている石段がある、この石段は釈迦院というお寺の参道であり、釈迦院は標高900m近い山の山頂近くにあって参道の入口の標高は240m、石段の頂上は810mであり、その標高差は570m、距離は3qもある。
 昔から御坂参道という山道の参道があったが、町おこしのために、当時の熊本県知事細川護熙(後の総理大臣)が「日本一づくり運動」を提唱し、それに呼応して8年の歳月をかけて昭和63年に石段が完成したものである。
 石段に使われている石は熊本県の名石をはじめ日本各地の石が使われ、中国・韓国やロシア・アメリカなど世界7ケ国の石も使われている。

 2012年5月にこの3,333段の石段登りに挑戦した。山登りをいくらかやっているので歩くことには多少自信があり、たかが3キロ、600メートルの登りだとなめてかかったのは間違いだった。
 登り始めの100段、200段は快調に登って行ったが、1,000段を超える辺りから徐々に普通の山登りと勝手が違い足の運びが鈍くなってきた。石段の両脇は大木が生い茂り周りの景色など何も見えない単調な石段が延々と続いているだけである。
 2,000段を超えると、5月上旬の薄曇りの日だったが額にはうっすらと汗を掻いてきた。陽が照っていたら大変だろうなと思いながら、只もくもくと足を運んで3,000段目の標石が見えた。あとは惰性で足を動かすだけである。
 そして、やっと石段の頂上に着いた。そこには大きな御影石の標石が立っていて、標石には「白龍が昇るがごとし石段は 三、三三三で日本一」と彫られていた。

 登り始めてから途中休憩したこともあって2時間近くもかかってしまった。でも、なんとなく達成感があった石段の登りでありました
 900mい近い山の上なので下とは気温差があるようで少しひんやりしていて、辺りは靄がかかっていて眺めなどなにも無い。登り口で写真を撮っていた親子も登ってきた。二言三言言葉を交わして下山にかかった。
 下りは快調で、足の動きに任せて30分余りで下ってしまったが、膝がガクガクになってしまった3,333段の石段の上り下りでありました。
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講演会でキリマンジャロ登頂記を講演
 加入しているシニアの集まりであるサークルでは毎年秋に講演会を開催している。サークルの会長から2003年秋に登ったアフリカのキリマンジャロの登頂記を講演してくれとの依頼がありこれを引き受けることにした。

 講演会が間近かに迫って準備をを始めた。先ずプロジェクターで映す写真をセレクトする作業から始めた。一緒に登った山仲間と5人で撮って共有した大量の写真から30数枚を選び、これをトリミングしてPower Pointでスライドショウにしてプロジェクターで映すことにした。
 次に話の内容だが、演題が「キリマンジャロ登頂記」であり山登りの話である。こんな話が山登りには少し縁遠くなったシニアに関心を持って聞いてもらえるかという懸念があった。そんなことを念頭に話のアウトラインを考え、冒頭でキリマンジャロがどんな山でどこにあるかということを話すことにした。
 なにぶんにも15年も前のことなので記憶が朧げになっていることは否めない。特に地名やその標高が曖昧であり、これ等は自分のホームページを読み返したり当時の登山記録を見て確認した。Power Pointには”発表者ツール”という便利な機能が用意されているのでこれを活用することにして、これら曖昧な地名や標高を発表者ツールのノートにメモして準備した。

 そして、本番の日を迎えた。この日の聴衆は40人余り、講演者は3人で私の出番はトップバッターだった。先ず参加者に登山行程等の概略を記したリーフレットを配り、パソコンをセットして「キリマンジャロ登頂記」と題したスライドを映しながら講演を始めた。スライドにはアフリカ大陸の地図・登山地図、登山中の光景や山頂で迎えた日の出・氷河などの写真を適宜拡大して映した。講演の台本は用意してないので思いつくままに喋り、手元にあるのはパソコンだけだった。私に与えられた時間は40分だった。あれもこれも話したかったが時間が足りず40分の持ち時間はアッという間に過ぎてしまい、最後にキリマンジャロ登頂証明書を大きく映して講演を終えた。
スライドのスタート画面 山頂で迎えた日の出 山頂での記念写真

2010.10.19 旅のつれづれトップ



キリマンジャロ
 還暦を迎えた2003年10月にキリマンジャロに登った。翌年3月に会社の定年退職を控えて勤務先会社の山仲間と5人で登ったもので、いわば卒業記念の山登りでもあった。
 キリマンジャロはタンザニアに聳える標高5895mの山でアフリカ大陸最高峰であり、7大陸最高峰の一っに数えられている。でも、この山に登るのに特別の登山技術は必要でなく普通の体力があれば誰でも登れる。登山者1人について2人のポーターを雇うことが義務付けられていて、登山荷物は全てポーターが持ってくれ登山者が背負うのは雨具と水・非常食を入れた小さなデイバッグで、まるで街中を散策するような荷物だ。そうは言ってもここには高山病という大敵がある。登頂を果たせない人のほとんどは高山病によるものだそうだ。

 入山して3日目に山頂までの標高差1200mの山小屋(4700m)に泊り、翌日深夜0時に出発した'山頂アタックはヘッドランプの灯りを頼りに砂礫の急坂の登りであり高山病との闘いでもあった。

 キリマンジャロの山頂には大きな火口がありその縁がギルマンズポイント(5682m)である。ここで東の空が明るくなってオレンジ色に輝く朝日が上がってきた。ここまで登ると高山病はいよいよ激しくなり、一言で言うとお酒を飲んだ翌日の二日酔いと船酔いが同時にやってきたようで頭はボーとしている。
 ギルマンズポイントからは火口の縁を行く比較的幅広い緩やかな傾斜の道で、標高差200mを登って最高所5895mのウフルピークに着いた。もう、これより上はないアフリカ大陸のテッペンだ。
                 
  山頂で見た光景は忘れられない。遮るものが何もない見渡す限りの雲海で、その上に上がったオレンジ色の朝日が神秘的で神々しい。そして、ヘミングウェイが短編小説「キリマンジャロの雪」で豹の屍が眠っていると書いている山頂の氷河が大きい。アフリカ大陸最高所の眺めを満喫しながらここに至るまでの道のりを振り返ると感慨無量だ。

 登りに3日半かかった道をわずか1日半で登山口マラングゲートまで下って、メンバー全員がキリマンジャロ登頂を果たした。
 この後、マラングゲートの一室で我々5人とガイド・ポーターの総勢18人での下山後のセレモニーがあって、先ずチーフガイドのエリアから一人ずつ登頂証明書が交付された。証明書には「CERTIFI No. 5066/2003」と書かれていて、私はこの年5066番目の登頂者であった。
 それから、全員で記念撮影をしてからキリマンジャロビールで乾杯した。そのうちにサブガイドのロメルの音頭でガイドとポーターが手拍子を打ちながら歌い出した。現地語スワヒリ語なので意味は分からないが、「キリマンジャロ」という語が何度も出てくる。私も手拍子を打ちながらその部分だけ声を出していた。見れば他の4人も歌っていた。
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佐世保の若い警官
 2012年5月に九州で出会った若い警察官の話です。
 5月とは思えないような暑いこの日、私は長崎県佐世保を車で旅していた。佐世保の海上自衛隊資料館を見学してから市街地を見物して佐世保バーガーを食べようと思い、駅近くの駐車場へ行くときに誤って進入禁止道路に入ってしまった。ここで運悪く警官に見つかってしまった。
 交通標識を見落としてしまった私が悪いのだが、「どこに目つけて走ってんだー」と、20代半ばと思しき警官は、なんとも横柄な態度で口の利き方も酷い。
 「川崎から仕事で来たのか?」
 「いえ、観光旅行です」
 いろいろ訊かれた後に、罰金はいくらかと尋ねたら、「罰金じゃぁねぇ、反則金だぁ〜」と覚えておけと言わんばかりの口ぶりだ。そして、反則金7,000円の納入書を書きながら、「おめぇ 酒飲んでねぇだろうな〜〜」
 この言葉に遂に堪忍袋の緒が切れた。反則切符もきられてしまったことだし、いつまでもこんな若造に言いたい放題しゃべらせておくわけにはいかない。

 ここからは反撃モードにチェンジ・・・・・
 「オイ もう一遍いってみろ」
 「・・・・・・・」
私 「そんな酷い口の利き方で、本当に警官なのか?」
 「制服を着ているから警官だって分かるだろう〜」  (ここまでは威勢がよかった)
 「ガードマンだって似たような服を着てるし、制服を横流しするやつだっている」 「君も警官の端くれだったら警察官職務執行法を読んだことがあるだろう〜 そこに何て書いてあるか言ってみろ〜」
 「警察手帳を提示すると書いてあります」  (言葉つきが変わった)
 「知っているじゃないか〜 そのとおりだよ」
 彼が差し出した警察手帳には「佐世保警察署 巡査 ○○○○」と書いてあった。

 この後 延々と反則金7,000円の根拠法令、道路交通法、長崎県公安委員会規則等を質したら、彼はその都度冊子を見ながらしどろもどろに応えたが、彼の言葉使いは次第に丁寧になっていった。
 この間、私は陽射しを避けた車内の座席に座り、彼は強い陽射しを受けて立ったままで額に汗。この汗は暑さのためだけではないようだ。きっと、彼は内心「今日はトンデモナイヤツを捕まえてしまった」と思っているようで、それが顔に現れている。
 この時点で、主導権は私の方に移っていた。さらにダメ押しで〜〜
 「ところで、長崎県警の本部長は誰がやっているのかネ」
 「・・・・・・・・」
 「君は上司の名前も知らないのか〜 まぁ いいや」
 この言葉を彼がどのように受け取ったか知らないが、彼はかわいそうなくらいに委縮していた。

 あまりしつこく虐めて、あらぬ方向に転じてもいけないので、頃合いを見計らって彼を解放してやることにした。
 別れしな、「君は交通取り締まりに関する法令をもっと勉強するべきだな〜 それと言葉遣いもな〜」と言ったら、彼はしょんぼりして、後ろを振り返りもせずに無言で立ち去った。

<後日談> 後日、このことを友人に話したら、友人は「これだけ虐めたら、反則金7,000円の半分ぐらい取り返した気分だろう」と言っていた。

2010.9.05 旅のつれづれトップ



旅の徒然1  旅の徒然2(準備中)

































神奈川
 あいうえお