横浜は異国情緒が漂い、レトロな雰囲気がそこかしこに残っています。 そんな街を自転車で散策しています。 |
生麦事件 | トマトケチャップ発祥 | 岩亀稲荷 | 下岡蓮杖 | Bar Star Dust |
美空ひばりの像 | 水の守護神 | 新聞誕生の地 | ヘボン博士邸跡 | 花園橋親柱 |
英一番館跡 | 中華街牌楼 (1) | 中華街牌楼 (2) | 汽車道 | 馬車道 |
江戸時代末期の文久2年8月(1862年)に、武蔵国生麦村(現 鶴見区生麦)で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件があった。その事件の石碑が京浜急行線生麦駅近くに建っている。 江戸から京都へ向かう途中であった薩摩藩主島津忠義の父 島津久光の行列が生麦村に差しかかったところ、前方を川崎大師へ見物に行く横浜在住のイギリス人4人が馬に乗ったまま横切った。これに怒った藩士が斬りかかり、1人が死亡、2人が負傷した。 この事件でイギリスは薩摩藩に関係者の処罰と賠償を要求するが、薩摩藩はこれを拒絶し、結果として翌年 薩英戦争が勃発する。 ('13.2撮) |
第一京浜国道の子安ランプ入口交差点近くの歩道上に「トマトケチャップ発祥の地」と刻まれた赤御影石の石碑が立っている。 1859年(安政6年)の横浜開港によって、西洋のもの、人、文化が流れ込んできて、キャベツやトマト、セロリ、カリフラワー等の西洋野菜も日本へ入ってきた。1862年(文久2年)居留外国人が菜園を作ったのを皮切りに、多くの居留外国人が山手に農場を開設。やがて、根岸、磯子、子安など近隣農村へと西洋野菜の栽培が拡がっていった。 子安で西洋野菜の栽培が始まったのは1866年(慶応2年)ごろで、子安村の堤春吉が外国船に食材などを納めていた人からトマト、セロリ、カリフラワーなどの種を譲り受け、子安村の人々とともに西洋野菜の栽培を始めた。 |
子安は東海道に面しており、情報が行き交う場所。東京と横浜の中間地点で二大消費地への出荷が容易だったことに加え、西洋野菜栽培に適した土壌と人々の栽培努力から、子安村での西洋野菜の栽培はどんどん盛んになり、明治時代半ばには子安村の栽培農家は80戸までになった。そんな中で、栽培農家の一人清水興助は、出荷に適さない傷んだトマトの有効利用としてトマトソースを作り、更にトマトケチャップ作りの勉強を続けて、遂に1894年(明治27年)に興助はトマトケチャップ製造会社を始めた。 1911年(明治44年)ごろには鶴見境から神奈川境までの「子安西洋野菜」作付面積は50ha近くにもなった。しかし、大正初期から子安付近の埋め立てが進み、西洋野菜の栽培で栄えた村も京浜工業地帯として発展することになりました。 ('13.2撮) |
安政6年(1859)当時の横浜の歓楽街は現在の横浜スタジアムの辺りで、ここに異人客専門の遊郭「岩亀楼(がんきろう)」があった。当主は埼玉県岩槻の人で、音読みで「がんき」と呼ばれていた。 遊女たちが病のとき静養する館が現在の戸部町にあり、遊女たちが信仰していたお稲荷さんが館内にあったので岩亀稲荷と呼ばれ、現在も信仰が受け継がれている。このお稲荷さんを粗末にすると近所の女性に災いが起こると言い伝えられ、毎年5月25日には盛大に例祭が行われている。 ('13.2撮) |
下岡蓮杖は文久2年(1862)に野毛で写真場を開き、後に馬車道で写真館を開設した横浜初の写真家で、多くの門下生を育て日本における写真技術の先覚者として日本における写真師という職業を確立した写真の開祖である。 オランダから渡来した銀板写真にに遭遇した狩野派の青年絵師 下岡蓮杖が、絵筆を折り捨て写真技術の習得の道へ歩み出したのは弘化2年(1845)のことだった。 ('13.1撮) |
横浜港瑞穂埠頭 米軍のノースドッグの入口瑞穂橋の近くに古びた小さなバーがある。 サザンオールスターズの名曲「思い出のスターダスト」の舞台と言われている老舗のBARで、一昔前の粋な横浜の雰囲気を醸しだしています。 Oh My Baby 横浜の姐や 心からお前が好きだよ Lady 〜〜〜 Oh My Baby 思い出の"Star Dust" 波音に浮かびあがる Harbour Light" 〜〜〜 バーボンでも飲みながら、みなとみらいのランドマークやコンチネンタルホテルを眺めたら、きっと良い気分になるだろう。 ('13.1撮) |
横浜・磯子出身の美空ひばりが、横浜 野毛で歌を歌い始めた頃から通っていたという京浜急行線日ノ出町駅近くのすし屋の前に、子どもの頃の姿で歌う美空ひばりの像が建っています。銅像はこのすし屋のあるじの発案でできたそうです。 幼少期から歌手として活躍していた美空ひばりが8歳の頃に初舞台を踏んだのが、この野毛にあった横浜国際劇場。 美空ひばり主演映画「悲しき口笛」の舞台となったのも、この野毛界隈でした。 ('13.1撮) |
山下公園の中央、噴水の中心に立っている像です。
アメリカ サンディエゴ在住の日系市民の要望に応え、昭和30年に横浜市から「雪見灯篭」を寄贈しました。その後、サンディエゴ市長から姉妹都市提携の申し入れがあり、横浜市とサンディエゴ市は昭和32年に姉妹都市として提携し、サンディエゴ市から「水の守護神」が送られました。サンディエゴ市庁舎前にも同じ像があるそうです。
('12.10撮)
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中華街 横浜中華学院横の歩道に「日本における新聞誕生の地」の碑が立っている。 1864年(元治元年)、海外事情を明らかにするために、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が外国新聞を翻訳・編集し日本初の邦字新聞「海外新聞」を発刊した。ここはその居館跡。 ('12.10撮) |
横浜中華街からほど近い所に、横浜中税務署や地方入国管理局などが入った横浜地方合同庁舎がある。ここは、ヘボン博士がかつて暮らしていた場所であり、庁舎の門の前にはヘボン博士の住居跡を記念する碑が建っています。 ヘボン博士は横浜開港直後に来日したアメリカの宣教師で、日本初の和英辞典「和英語林集成」を出版した。この辞典に使われているローマ字表記が、「ヘボン式」の元になった。 ('12.9撮) |
中華街西門 延平門を入ってすぐ右側に横浜市立港中学校がある。この学校の門柱は、今は首都高速道路になっている大岡川に架かっていた花園橋の親柱である。 昭和48年(1973)大岡川の埋め立てで廃橋になった花園橋の趣きのある親柱が、港中学校の門柱として移築されたものである。 ('12.8撮) |
安政6年に横浜港が開港し、開港後まもなく帆船で来航したイギリス人ウィリアム・ケズウィックは、現在の大桟橋入口のシルクセンターの辺りで貿易商を始めた。ケズウィックが設立した「ジャーディン・マセソン商会」のあった所を、当時の人々は「英一番館」と呼んでいた。 ('12.8撮) |
横浜中華街には10基の牌楼(門)が建っている。牌楼と書いて「パイロウ」と読むが、牌楼の表側は「中華街」、そして裏側にはそれぞれの門の名称が書かれている。昭和30年頃に中華街大通りの入り口に「牌楼門」が建てられ、牌楼門の上「中華街」と書かれたことで、それまでは南京町と呼ばれていたこの街が「中華街」と呼ばれるようになった。 善隣門は中華街の中央 加賀町警察署の前に建っていて中華街のシンボル的存在である。初代は昭和30年に完成し、その頃は単に「牌楼門」と呼ばれていたが、平成元年に現在の姿にリニューアルされた。その際に、隣国や隣家と仲良くするという「親仁善隣」という言葉を掲げ、名称も「善隣門」に改められました。 (「隣」と「鄰」・・・・・「鄰」が本字らしいです) |
東 朝陽門(チョウヨウモン) 朝日が街全体を覆い繁栄をもたらす。守護神は青龍神。色は青。(山下公園側) 南 朱雀門(スザクモン) 厄災をはらい、大いなる福を招く。守護神は朱雀神。色は赤。(元町側) 西 延平門(エンペイモン) 平和と平安のやすらぎが末永く続くことを願う。守護神は白虎神。色は白。(石川町駅側) 北 幻武門(ゲンブモン) 子孫の繁栄をもたらす。守護神は玄武神。色は黒。(横浜スタジアム側) |
ランドマークタワー前の日本丸メモリアルパークの傍らから新港地区へ向けて、「汽車道」というプロムナードコースが通っている。元々はかつての新港埠頭の物資輸送に使われた臨港鉄道の遺構を保存・利用したもので、汽車道の路面にはそのレール跡が残されている。 1989年に開催された横浜博覧会の際にはこの路線跡を利用して桜木町から汽車が走ったのだそうだ。 |
関内駅の横浜港寄りに位置するこの道路は、幕末に横浜港が開港したことから始まる。幕府は横浜港を開港させ、「吉田橋」に関門を設けた。その関門に開港場側から至る道が馬車道である。 外国人はこの道を馬車で往来しており、当時の人々にその姿は非常に珍しく、「異人馬車」などと呼んでいたことから、この道は「馬車道」と呼ばれるようになった。 |