四国遍路 第3週1




 第15日 10月16日  晴      走行55km 累計1,480km
 はりまや橋 高知城 ひろめ市場  (泊)道の駅「土佐和紙工芸村」(いの町)
  34種間寺 35清滝寺


 34番種間寺でお参りを済ませてから木陰でポカリスウェットを飲んでいたら、お遍路のお婆さんが話しかけてきた。「この春に亡くなった息子の供養でお遍路をやっています」。この79歳になるお婆さんの息子は、嫁の実家の親との折り合いが悪くてうつ病になり自死してしまったそうだ。話をきいてやることも供養だと思い、話を聴いてやりました。
 
 35番清滝寺で言葉を交わした73歳の大阪の女性は、一回に5日間ぐらいの日程で繋ぎ繋ぎで全行程を歩いて回っている。「写真を撮らせてもらってもいいですか」と訊いたら、「今日は2回目のモデルなんですよ」と言って快く応じてくれました。
 別れしなに「次の札所まで車に乗りますか?」と言ったら、「ありがとうございます。でも、全部を歩きますので〜〜」 「あなたも、お気をつけて遍路してくださいね」 上品な物言いのこの老婦人のどこにこんなバイタリティーがあるのだろうか。

35番 清滝寺

 「土佐の高知のはりまや橋で 坊さん かんざし買うを見た」と、一昔前にペギー葉山が歌ったはりまや橋はとても小さかった。
 はりまや橋は、江戸時代初期、堀川を挟んで商いを営んでいた播磨屋と櫃屋がお互いに行き来するために架けた私設の橋がその始まりだと言われている。その後、周辺の賑わいとともに公共の橋になったと、説明板に書いてありました。





この後、高知のシンボル高知城へ徒歩で向かった。
 高知城は江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって築かれたが、明治時代に廃城令によって取り壊されたが、その後昭和になってから再建されたものである。



 高知城を出て車を停めたはりまや橋へ帰る道を地図で見ていたら、おじさんが寄って来て道を教えてくれた。そして、ちょうど昼飯時だったので「ここに、美味くて安いで〜」と教えてくれたのが「ひろめ市場」。
 ひろめ市場はカツオのたたきや刺身など、高知の海産物や地酒など高知の特産品を扱う店が並ぶ屋台村。各お店で買ったものは市場中央のテーブル席で食べられるようになっている。アジの刺身が280円で讃岐うどんが200円だった。とても、美味しかったです。


  


 今日の泊まり場 道の駅「土佐和紙工芸村」に車を停めて缶ビールを飲んでいたら、選挙カーがやってきた。この日、いの町は町長選挙の告示日だった。選挙民に笑顔を振りまいている候補者は私の前にやって来て、「○○○○です。よろしくお願いします」。私が旅行者だと気が付くと、「いの町にお知り合いの方がおられますか?」 私が「え〜 まァ〜」と曖昧に応じると、「お知り合いの方によろしくお伝えください」



 第16日 10月17日  豪雨     走行27km 累計1,507km
 土佐和紙            (泊)国民宿舎「土佐」(土佐市)


 前夜半から降り出した雨は今日一日続くとの予報である。こんな日はお遍路は止めて、車もあまり走らせないことにしている。
 今夜の宿を電話で予約してから、道の駅の建物に隣接した工房で和紙を漉いているところを見学させてもらった。
 
 高知市の西、清流仁淀川が流れる「いの町」は土佐和紙発祥の地。土佐和紙の歴史は長く、1000年以上と言われている。江戸時代には「土佐七色紙」が徳川幕府に献上されていた。





 天気予報は午後から夜にかけて一段と風雨が強くなり、大雨洪水注意報も出たとラジオは報じている。その激しい風雨の中、ライトを点けてワイパー最強で土佐市に向けて走り出した。
 
 土佐市の国民宿舎の駐車場に着いて、駐車場から玄関までわずか数10m歩く間、傘をさしているのにズボン・靴はぐしょ濡れ。幸いにもここの宿にはコインランドリーがあったので、これまで溜まっていた洗濯物と共に洗濯した。
 この旅に出て初めての宿、PC,wi-fiなどすべての電子機器を充電。たまたま、この日岐阜県から来た同年代のお遍路さんがいて、お酒を飲みながらいろいろ教えてもらった。この男性は今回が7回目の歩き遍路だとのこと。世の中、信仰心が篤い人がいるものです。



 第17日 10月18日  雨後曇         走行35km 累計1,542km
 朝青龍 明徳義塾グランド 土佐藩砲台  (泊)道の駅「すさき」(須崎市)
  36青龍寺


 前日のような強い雨ではないが、今日午前中は雨が残るとの天気予報。
 深い樹林に囲まれた一直線の石段を上り切ると、そこに唐破風の青龍寺本堂が建っている。こんな雨の中でもお遍路さんは読経している。


 角界でとかく物議を醸した元横綱朝青龍は、モンゴルから来日して青龍寺からほど近い所にある明徳義塾で高校時代を過ごした。高校時代に青龍寺のこの170段の石段を何回も上がったり下ったりしていたと納経所の女性が話してくれたが、あの強迅な足腰はこの時に培われたのだろう。
 しこ名の「朝青龍」は、親方の現役時のしこ名朝汐と青龍寺からとったものであり、名前の明徳(あきのり)は、母校の明徳義塾からとったものだと言われている。



 甲子園の常連校 明徳義塾のグラウンドは立派だった。数日前に訪れた安芸高校の河川敷のグラウンドとは比較にならない。4基の照明灯、両翼90m、センター120mのグラウンドは、前日からの雨で水が浮いているし、この時間は授業中なので選手はいない。
 高知市内で言葉を交わしたおじさんは、「明徳は確かに強いけど、他県から選手を集めてきているので、郷土の代表という気がしない」。このおじさんは、高知商業や土佐高校に頑張ってもらいたいのだろう。
 


 幕末の異国船渡来により、海岸防備のため土佐藩は須崎に3ヶ所の砲台を築造した。そのうちの一つが、砲台はないが海岸近くに記念碑として残され、国の史跡に指定されている。
 慶応3年(1867)に水夫殺害事件が起こり、イギリス公使パークスが須崎に軍艦で入港してきた。土佐藩との外交交渉がもたれ、坂本竜馬も神戸から入港し、船上で交渉を見守った。




 第18日 10月19日  晴    走行102km 累計1,644km
 竹の屋敷林      (泊)道の駅「四万十とおわ」(四万十町)
  37岩本寺


 旧窪川町の街中ににある岩本寺は、仁王門を入ると小じんまりした境内の中に本堂があった。本堂も小じんまりしていて、ちょっと離れた椅子で60歳ぐらいの男女が一生懸命地図を見ている。
 岐阜県から来て歩いている夫婦で、「私たちは還暦を過ぎてあまり足が速くないから、50日か60日ぐらいかかりますよ。若くて足の達者な人は40日ぐらいで回るそうですよ」と言っていました。



 四万十町興津に「竹の屋敷林」があると地図に載っている。須崎の市街地から1時間半、興津峠の細い1車線の曲がりくねった道を越えて行ってみた。小さな集落のそれぞれの家が竹の塀で囲ってある。
 清涼飲料を買いに入ったお店のおばさんは、「年に3〜4回竹の手入れをしなければならないんですよ」 ここも過疎化の波で若い人が少なくなり、ブロック塀に替える家もあるそうだ。
 「学校も小学校30人、中学校10人で、運動会は小中合同でやっていて、中学校は窪川の中学校と統合の話が出ているんですよ」 地方へ行くとよく聞く話である。
 
 驚いたことに、自転車で四国を走っている火野正平が数日前にここへ走ってきたそうだ。NHKのスタッフはさすがだ。目の付けどころがいい。それにしても、しょうへい君、興津峠の峠越えはきつかっただろうなー。







興津小室の浜は、白砂青松100選に選ばれた浜で、白砂の浜と青い松原がきれいだ。





 隣り合って四万十市と四万十町という市と町がある。紛らわしいことこの上ない。道路標識も四万十市(旧中村)と四万十町(旧窪川)と表示してある。
 sityの方は中村市と西土佐村が合併して四万十を名乗り、townの方も窪川町・大正町・十和村が合併して、これまた四万十を名乗った。いずれの町も譲らず同じ名前が出来たのでした。小泉内閣時代の「平成の大合併」のときのことであるが、いずれの町でも大分議論があったと地元の人が話してくれました。
 
 四万十町大正で食べた清流四万十川で獲れた鮎が入った「あゆ丼」はとても美味しかったです





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