ぶらり九州

第 8 週1
5/11〜5/13

引揚の地
佐世保
平戸島
生月島




 第50日 5月11日  晴              走行95km 累計4,766km
 引揚第一歩の地 南風駅 海上自衛隊資料館  (泊)道の駅「たびら」(平戸市)


佐世保 浦頭
昭和20年8月15日に太平洋戦争の終結に伴い、佐世保港のこの浦頭(うらがしら)の地に、昭和20年10月韓国の済州島から旧陸軍軍人約1,000人が引き揚げたのをはじめ、以後昭和25年までに主に中国大陸や南方諸島からの引揚船により、一般邦人・軍人・軍属合わせて140万人もの人々が浦頭に引揚げの第一歩を印した。
 
引揚者は、上陸と同時に消毒のためDDTの散布を全身に浴び、検疫の後、収容先となった佐世保引揚援護局(今はハウステンポスがある所)までの約7キロメートルの山道を、一歩一歩踏みしめながら歩いた。
そしてたどりついた援護局宿舎で、引揚手続きを終えると衣服、日用品等の支給を受け、2泊ないし3泊の後、南風崎(はえのさき)駅からそれぞれの郷里へ向かった。







浦頭には、なぜか田端義夫の「かえり船」の碑が立っていた



佐世保市の郊外 針尾にとても高い無線塔が3本も立っている。
太平洋戦争開戦時の真珠湾攻撃の暗号電報「ニイタカヤマノボレ 1208」は、太平洋上の艦隊に向けての送信は千葉県の送信塔から送られた。それと同時に、針尾無線塔からは中国地方の部隊に向けて同じ文面の暗号電報が発せられていた。



海上自衛隊佐世保史料館
旧日本海軍や自衛隊の資料が展示されているが、当然のことながら館内は撮影禁止なので写真は正面玄関しかありません。
 
佐世保は古くから海上防衛の役割を担ってきた街で、戦後も昭和28年に海上自衛隊佐世保地方総監部がおかれた。この資料館は、旧海軍将校の社交場だった水交社という石造りの建物を一部に帆をイメージしたデザインから「セイルタワー」という愛称で親しまれている。
展望ロビーをかねた最上階の7階から見て回る展示となっており、グラフィックや、ジオラマ、映像を駆使した分かりやすい展示でありました。



若い警察官
自衛隊史料館を出てから、佐世保駅付近を散策して佐世保バーガーを食べようと思い、駅近くの市営駐車場へ行くときに誤って進入禁止道路に入ってしまった。ここで運悪く警察官に見つかってしまった。
交通標識を見落とした私が悪いのだが、「どこに目をつけて走ってんだ〜〜」と、20代半ばと思しき若い警察官は横柄な態度で口のきき方もひどい。
 
いろいろ訊かれた後に、罰金いくらなのかと訊ねたら、「罰金じゃぁねぇ〜〜 反則金だ」と、覚えておけと言わんばかりの口ぶりだ。
そして、反則金7,000円の納入書を書きながら「酒飲んでねえだろうな〜〜」
この言葉にはカチンときた。
反則キップも切られてしまったことだし、いつまでもこんな若造に言いたい放題喋らせておくわけにはいかない。
ここからは反撃モードにチェンジ
 
 「おい、もう一遍言ってみろーー」
 「・・・・・・・・・」
 
 「警官が職務上質問するときには、何か一定のルールがあるだろう」
 「制服を着ているから、警官だってわかるだろう〜〜」
 「ガードマンだって似たような服装をしているのがいるし、制服を横流しする奴もいる。君も警官のはしくれだったら、警察官職務執行法を読んだことがあるだろう。そこに何て書いてあるか言ってみろ」
 「警察手帳を提示すると書いてあります」 (言葉つきが変った)
 「そうだ、そのとおりだよ。知っているじゃぁないか〜」
彼が差し出した警察手帳には「佐世保警察署 巡査 ○○○○」と書いてあった。
 
この後、延々と反則金7,000円の根拠、道路交通法、長崎県公安委員会規則等を問い質した。彼はその都度冊子を見ながら、しどろもどろに応えたが、彼の口調は次第に丁寧になっていった。
この間、私は陽射しを避けた車内の座席に座り、彼は強い陽射しの中で立ったまま額に汗。汗は暑さのためだけではないようだ。
きっと、内心「今日はトンデモナイヤツを捕まえてしまった」と思っているようで、それが顔に現われている。
 
この時点で、主導権は完全に私の方に移っている。
さらにダメ押しで、
 「ところで、長崎県警の本部長は誰がやっているのかね?」
 「・・・・・・・・」
 「君は上司の名前も知らないのか〜 まぁ いいや」
この言葉を彼がどのように受け取ったか知らないが、彼はかわいそうなくらいに萎縮していた。
あまりしつこくいじめて、あらぬ方向に転じてもいけないので、頃合いを見計らって解放してやることにした。
別れしな、「君は交通取り締まりに関する法令をもっと勉強するべきだな。そして言葉づかいもな」と言ったら、彼はしょんぼりして。後ろを振り返りもせずに無言で立ち去った。
 

 
こんなことがあって佐世保バーガーを食べるのは止めて、厄払いに佐世保郊外のホテルの温泉に行った。
湯に浸かってからノンアルコールのビールを飲みながら遅い昼食を食べて、厭な思い出を断ち切ってから佐世保を去った。



 第51日 5月12日  晴        走行32km 累計4,798km
 日本最西端の駅 平戸城下   (泊)道の駅「生月大橋」(平戸市)


日本最西端の駅
松浦鉄道「たびら平戸口駅」は、鉄道の駅としては日本最西端の駅であり、駅前には平戸出身の歌人藤浦洸の筆による碑が立っている。
これで、日本列島東西南北 端っこの駅を制覇したことになる。 
 

南端 西大山駅 北端 稚内駅 東端 東根室駅



平戸は安土桃山から江戸時代にかけて対外貿易により、貿易港フィランド(平戸)として繁栄を極めていた。
平戸湾を挟んだ対岸から撮った平戸城です。



フランシスコザビエルが平戸を訪れ布教活動を始めたのを期に建てられたザビエル記念教会は、モスグリーンの外観と尖塔や礼拝堂内部のステンドグラスが美しい。

平戸ザビエル教会





寺院と教会が一緒に見える光景




 第52日 5月13日  曇    走行112km 累計4,910km
 生月島               (泊)道の駅「伊万里」


生月(いきつき)島の朝は曇空である。今日は雨は降らないが、明日午後から天気が崩れるとの予報。
 
山田教会を目指して走っていたら、大きな観音様が目に入った。生月大漁監観音は舘浦の小高い丘に鎮座する観音様。穏やかな表情が印象的で、座高18m、基壇3m、重量150tのとっても大きな観音様です。



観音様の近くに奇妙な名前「ガスパル様」の案内板があった。
この島を治めていた切支丹領主と一部の信徒が亡命した。島に残った信徒を指導したのがガスパル様(洗礼名)です。



目指していた山田教会は曲がりくねった細い道を上がって行かなければならない。
大島の太田尾教会で細い道は懲りたので、山田教会へ行くのは諦めた。



この後、再び平戸島へ行って教会巡り

カトリック宝亀(ほうき)教会





カトリック紐指(ひもさし)教会






天気予報は下り坂で、明日午後からは雨になるようだ。明日午前中に伊万里焼を見に行きたいので、頑張って伊万里まで走ることにした。
と、言ったってこの日の走行距離は110キロ。私にとって一日に100キロ以上も走るのは珍しいことだが、旅の途中で出会った旅人はみんな一日に200キロも300キロも走っている。




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