ぶらり九州

第 2 週 1
3/30〜4/1

杵 築
臼杵石仏
関アジ・関サバ
丹賀砲台跡
 



 第8日 3月30日  晴     走行70km 累計1,440km
 杵 築           (泊)道の駅「院内」(宇佐市)


杵 築
杵築は、江戸時代松平3万2,000石の城下町として栄え、南北の高台に武士が住み、その谷間に商人が暮らしたため凸凹である 『サンドイッチ型』城下町となった。
今でも江戸時代の風情が色濃く残り、全国初の「着物が似合う歴史的町並み」に認定されました。

杵築城


南北に2つある高台の武家屋敷街のうち、北台には杵築藩の上級武士の屋敷が連なっている。

武家屋敷通り


なかでも大原邸は、もっとも風格の漂う屋敷。それもそのはず、大原家は杵築藩の家老を務めた家柄である。長屋門をくぐると、豪壮な破風に広い間口の玄関。そして縁側にまわると、穏やかな庭園が造られている。絢爛な装飾はあまりないが、それさえも一藩の執政を担う家老たる威厳を示していようです。

大原邸


磯矢邸



北台武家屋敷から南台武家屋敷に通じる石畳の坂道は城下町・杵築を代表する光景の一つであり、今でも江戸時代の風情が残っていて、全国初の「着物が似合う歴史的町並み」に認定されました。
志保屋の坂、飴屋の坂、勘定場の坂、酢屋の坂など石畳の坂がいくつもある。この坂を下りきると谷町商店街で、さらに石畳の坂を上がって行くと、南台武家屋敷に繋がっている。


志保屋の坂


飴屋の坂


きもの姿ではなかったが、母娘連れが石畳の坂を上がって来た。娘さんがもう一度常夜灯の近くまで下ってくれました。

勘定場の坂



今日の泊まり場 道の駅「院内」に着いていっときしたら、青森県弘前から九州の旅に来ている夫婦に出会った。彼らもこれから九州を概ね時計回りで旅行するとのこと。「これから会うこともあるでしょう。お互い気をつけて車を運転しましょう」などと言葉を交わした。
(この夫婦とはこの後高千穂穂や熊本などで何回も出会った。そして翌年北海道へ行く時に弘前で再開し、誘われるままにお宅へお邪魔し、美味しい料理と弘前の美酒をご馳走になった。さらに、その数年後に妻と弘前城のさくらを見に行った時にも夫妻で歓待してくれた。)




 第9日 3月31日  晴     走行80km 累計1,520km
 別府大仏 関アジ    (泊)活魚料理処「関の瀬」(佐賀関)


昔、別府駅からほど近い所に大きな大仏が建っていた。高さ24mの鉄筋コンクリート造りで、うら寂れた場所であった。当時の案内によると、「東洋一」の大きさを誇っていたが、露天のため老朽化が激しく平成元年に解体されてしまった。
その跡地がどうなっているかと探しに行ってみた。墓地の一角に大仏跡の碑が建っているだけでした。
大仏の前にちょこんと座っているのは50年前の私です。







佐賀関へ来たら本場の関アジと関サバを食べないわけにはいかない。関アジと関サバは豊予海峡(速吸の瀬戸)で獲れるものである。この海域は水温の変化が少なく潮流が速いため、ここで生育するアジ・サバは肥育がよく身が締まっている。
 
この日は、道の駅「佐賀関」で泊まるつもりだったが付近に料理屋がない。止むなく10分ほど走って活魚料理処「関の瀬」へ行ったら、「ここの駐車場で車中泊してもいいよ」とのこと。
かくて、本場の関アジ・関サバを食べることができ、お酒もすすんでしまいました。
  




 第10日 4月1日  晴     走行137km 累計1,657km
 臼杵 臼杵石仏 丹賀要塞    (泊)道の駅「やよい」(佐伯市)


大分市の南東臼杵湾に面した臼杵は、南蛮文化を積極的に取り入れた戦国武将大友宗麟が城を築き、以後はポルトガルやスペインと交易して発展した。江戸時代には稲葉家五万石の城下町として栄えた。落ち着いた雰囲気の町のあちこちに城下町の面影が残っている。





二王座
臼杵の二王座は、狭い路地のいたるところにどっしりとした量感溢れる門構えの武家屋敷跡、白壁の土蔵や宗派の異なる歴史ある寺院が軒を連ね、城下町の面影を残している。この地区は、古く祇園社(現在の八坂神社)があり、その門として仁王門があったことから、二王座を呼ばれるようになったと言われている。
阿蘇山の火山灰が固まってできた凝灰岩の丘で、あちこちの岩を削り取って道を通した。特に、旧真光寺の前は「切り通し」と呼ばれる、臼杵を代表する景観である。辻から入ると上級の武家屋敷が立ち並び、田町側から登っていくと、多くの寺が集まっている。








臼杵石仏
臼杵石仏(磨崖仏)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われている。その規模と、数量において、また彫刻の質の高さにおいて、わが国を代表する石仏群であり、平成7年6月には磨崖仏では全国初、彫刻としても九州初の国宝に指定されました。

 

 

 


丹賀砲台
九州と四国の間の豊後水道の中で、豊予海峡に突き出した水路が最も狭い九州最東端の岬 佐伯市の鶴御崎には戦時中瀬戸内海への敵艦進入を阻止するため砲台が建設されていた。
現在はプラネタリウムと見紛うようなドームに覆われているが、その下にはかっての砲塔井、火薬庫、機械室などが修復されて残っている。
 
私は終戦時2歳で戦争の記憶は全くないが、こういうものを見ると、平和な時代に生きて自由気ままな旅を続けられる幸せを感じます。




ドームの下には当時の砲塔井・動力室・火薬庫等があり、観光用にきれいに整備されている。
   


豊予海峡に向けて築かれた砲台の跡



丹賀砲台から少し歩いた鶴見半島の突端に立つ鶴御崎燈台




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