第43日 8月13日(火) 晴 走行79km 累計3,342km |
サロマ湖 キムアネップ岬キャンプ場(サロマ湖畔) |
サロマ湖畔で
ひまわり畑
カボチャ畑
キムアネップ岬キャンプ場
サロマ湖畔のこのキャンプ場で埼玉県から来た同年代の男に出会い、同年代なので妙に気が合った。彼はこの日釣ってきたカレイをさばいて上手に調理してご馳走してくれた。ワゴン車には冷蔵庫もあって、冷たいビールもふるまってくれる。家でも料理を作るそうで手際がよい。私にはとても出来ないことだ。
今回の旅では釣りをやったり、時々山登りもするそうで話が弾んだ。 |
第44日 8月14日(水) 晴 走行0km 累計3,342km 自転車30km |
ワッカ原生花園までサイクリング キムアネップ岬キャンプ場(サロマ湖畔) |
キャンプ場から自転車で13キロほど走って、ワッカ原生花園まで行ってみた。残念ながら花の時季は終わっていて、ナデシコなどがわずかに残っているだけだった。 |
ナデシコ ハマナス
ワッカからほんの少し走った所に「船長の家」という市場があり、この市場の道路を挟んだ所に直営の食堂がある。ここで昼食に食べたホタテづくし御膳は美味しかった。
ホタテの刺身、焼き、フライ、酢の物、バター焼き まさにホタテづくしでありました。 |
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第45日 8月15日(木) 晴 走行91km 累計3,433km |
玉川自転車店 呼人キャンプ場(網走湖畔) |
50年前の北海道一周サイクリングでのこと
知床で知り合ったサイクリングの男と一緒に斜里駅近くの自転車屋へ立ち寄った。店主のおばさんと話しているときにパンク修理のお客さんが現れた。あいにく修理出来る店員が出かけていておばさんは修理出来ない。「ボクがやりますよ」と言ってパンク修理をしてやった。
おばさんは「私はこれから網走の本店へ汽車で帰るから、君たちはここへ泊っていきなさい。その代りお客さんが来たら修理してやってね」と言って網走へ帰って行った。
帰宅してからお礼状を出したら、「いつか叉網走へ来たら寄ってください」と手紙がきました。
この当時、このおばさんは50代後半で存命していたとしても100歳を越えている。でも、息子か孫がいるだろうと思い、網走本店の住所地へ行ってみた。しかし、網走駅からほど近い目的の場所には自転車屋はない。付近で訊いてみたが分からない。
同業者の方が分かるだろうと思い、当該地に一番近い自転車店へ行ってみた。幸いにもそこの店主は70歳ぐらいで写真を見せたらすぐに分かった。「ちょっとハイカラだったおばあちゃんだけど大分前に亡くなったよ。その後、息子さんが店を営んでいたが数年前に店をたたんで他所へ引っ越してしまった」。 |
中央がボクです
第46日 8月16日(金) 晴 走行0km 累計3,433km 自転車21km |
ラグビー合宿見物 網走刑務所 呼人キャンプ場(網走湖畔) |
網走スポーツ・トレーニングフィールドは網走湖を見下ろす林の中にあるスポーツ施設です。
東京ドーム約9個分の広大な敷地内には、サッカーやラグビーのチームが合宿を行う天然芝フィールドが7面もある。
毎年夏のこの時期はラグビーの合宿をやっていて、トップリーグの合宿は終わっていたが、大学チームの合宿が行われていた。この日は東海大が練習をしていて、間近かに見た大きな男のぶつかり合いは練習とは言え十分にに迫力があった。部員140人、女子マネージャー5人も用具の準備や水を運んだり忙しそうにしていました。
東海大は、18日に筑波大と、20日に同志社大と練習試合が組まれているそうだ。 |
網走と言えば網走刑務所。博物館「網走監獄」は網走の観光名所だが、こちらは現役の刑務所で服役者が収監されているので中を見ることは出来ない。
網走刑務所は国道39号線の工事のため明治23年釧路集治監網走外役所として開設されたのが始まりで昭和23年に網走刑務所と改称された。収容者の歴史では足に五寸釘を刺しながら逃亡した「五寸釘寅吉」(明治35年)、「明治のねずみ小僧」(明治45年)、吉村昭の小説「破獄」のモデルとなった脱獄犯白鳥由栄らが服役している。
明治期には道内の刑務所は全国の重罪犯・極悪犯・長期刑者を収容していて極悪非道網走番外地とのイメージが固まってしまったが、今では3年以下の短期刑者が多く、収容人員も最盛期の約1/3の600人前後である。 |
網走刑務所正門
正門の赤レンガを含めレンガ塀に使用されたレンガは、刑務所内の用地から出土した粘土を刑務所内の工場で受刑者が焼き上げたもので、総数150万枚に及んでいる。 |
刑務所正門際の売店で受刑者が造った家具等を販売している
家具を買うわけにはいかないので、小さなまな板を買いました。
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