第47日 8月17日(土) 曇 走行77km 累計3,510km |
屯田兵上陸の地 北浜駅 道の駅「しゃり」(斜里町) |
網走市街地から南へ10kほどの海岸線に屯田兵上陸の地の記念碑がある。
明治30年から31年にかけて、北海道に新天地を求めた屯田兵の兵員とその家族597人がオホーツク海網走に上陸した。屯田兵に課せられた使命は、明治国家の国民的独立のための防衛と開拓であった。 |
網走駅から知床へ向かって3っ目の駅 藻琴駅の高台の網走原生牧場の一画に太平洋戦争時に築かれたトーチカの跡地がある。
太平洋戦争末期、アメリカ軍の上陸を想定し、日本は北海道東南部の防備を固めるため、ここにトーチカを設置した。碑文によると、貨車一台分のセメントを使用し約3か月間で構築した。壁の厚さは50cmほどあり、知床方面のオホーツク海岸を見渡せる銃眼を持っている。 |
網走と釧路を結ぶJR釧網線の北浜駅はオホーツク海に最も近い駅として鉄道ファンだけでなく、北海道を旅行する観光客に人気がある。
駅舎はあるが駅員がいないので、いわゆる無人駅である。しかし、この駅舎には小さなレストランがあって結構繁盛している。ここで食べたスパゲティーは美味しかったです。 |
第48日 8月18日(日) 雨後晴 走行68km 累計3,578km |
津軽藩斜里陣屋跡 弟子屈 |
津軽藩斜里陣屋跡
斜里地方の沿岸防衛を命ぜられた津軽藩は、文化4年(1807)に陣屋3棟を建てて藩士100名が駐屯して沿岸警備に当たった。しかし、辺境での気候風土は耐え難く、厳しい越冬期間中浮腫病のまんえんにより次々と死亡し、翌年故郷の津軽に帰還した藩士はわずか17名だった。 |
北海道開拓の先駆者として斜里に来て果てた津軽藩士の霊を弔うため、斜里町は昭和48年に「津軽藩士殉難慰霊の碑」を建立した。以来、斜里町と弘前市は姉妹都市提携を結び、弘前の「ねぷたまつり」を斜里町でも行っている。 |
斜里で津軽藩の陣屋跡や資料館を見学しているうちに雨が降り出し、雨足は次第に強くなってくる。
その雨も、弟子屈の従兄の家に着く頃には上がり、薄日さえさしてきた。明日のパークゴルフは大丈夫のようだ。 |
第49日 8月19日(月) 晴一時雨 走行0km 累計3,578km |
パークゴルフ 弟子屈 |
自宅から車で20分程の「900草原パークゴルフ場」は、弟子屈町のパークゴルフ場で9ホールのコースが4っもあって無料である。900草原とは広さが900町歩であることを意味するもので、とにかく広い。ちなみに1町歩は100m×100mである。
私は3年ぶりの2回目のパークゴルフだが、従兄夫婦は週に3回も4回もやっている。3年前に従兄に教えてもらったことなどすっかり忘れてしまっている。スコアは惨憺たるものだった。 |
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