'13 ぶらり北海道

 
 

第3週2
(7/20〜7/22)
旧旭川高女
留 萌
旧豊浜小学校

 

 
 
 第19日 7月20日(土) 晴 走行84km 累計2,107km 自転車15km
 旧旭川高等女学校              留萌黄金岬(留萌市)
 
 今年92歳になる私の妻の母親は旭川で生まれ、娘時代を旭川で過ごしていた。義母は旭川駅からほど近い所にあった女学校で学んでいたが、この学校は1907年創立時には北海道庁立旭川高等女学校という校名であった。
 戦後の学制改革で男女共学になり、校名も北海道立旭川西高等学校に変わった大変長い歴史のある学校です。
 
 旭川では名門校であるといわれている旭川西高等学校は石狩川の川畔にあった。ここで旭川高女の面影を見出すことは出来なかった。
  
旭川西高等学校
 
 
 旭川高女は市の中心部にある旭川市コミュニケーション広場の市民ホールの辺りだというのを聞きつけたので、市民ホールへ行くと、その前庭にそのモニュメントがありました。
 モニュメントには、「ここに 北海道庁立旭川高等女学校 ありき」と彫られている。そして、その脇には春陽桜が旭川高女同窓会「桜花会」によって植樹されている。
 
 この辺りは義母が学んでいる頃とは様子が一変しているようだ。辺りを見回すと道路を挟んだ所に大きなお寺がある。境内にに入っていくと境内に副住職がいたので話を聞いてみた。
 このお寺は先々代の住職が明治時代に開山したもので、本堂や庫裏等ほとんどの建物は建て直していて、最も古いものは大正時代に建てられた鐘突き堂だと教えてくれた。撮った鐘突き堂の写真を見て、義母はこの鐘突き堂のことを憶えているだろうか。

   
  
   モニュメント                    「ここに旭川高等女学校ありき」
 
留萌の黄金岬
 かってニシンの見張り台でもあった岬は、夕陽に映し出された群来(ニシンの群)がキラキラと黄金色に輝きながら岸を目がけて押し寄せたことから「黄金岬」と呼ばれるようになった。
 この日はあいにく西側に雲が垂れ込んでいて、沈む夕陽を見ることは出来なかった。明日一日留萌にステイして夕方きれいな夕陽が見られることを期待しよう。
 
 
 
 第20日 7月21日(日) 晴   走行0km 累計2,107km  自転車20km
 黄金岬の夕陽                   留萌黄金岬(留萌市)
 
 車を黄金岬のキャンプ場に置いて自転車でさして広くない留萌の街中を散策。まず駅前の観光案内所へ行き市街地の詳しい地図をもらう。地図を見ると寿司屋と銀行がやたらに多い。寿司屋はともかくとして、銀行が多いのは昔北前船で交易が盛んだった頃の名残りなのだろうか。
 昼は数多い寿司屋の中から一軒の寿司屋に入った。美味しかった。店主が言うには、「人口2万人だが人口減少の一途を辿っている。」

 ここ数日、PCのマウスの調子が良くない。全国どこにでもあるヤマダ電機へ行った。見慣れたヤマダのマークの店舗で、店内の造りも店員の服装も川崎と同じである。鹿児島で入ったヤマダ電機もそうだった。
 マウスの不調の原因はすぐに判り、新しいマウスを購入したが、これはポイントで賄えた。
 
 
樺太引揚三船慰霊碑
 黄金岬の高台に慰霊碑が建っている。太平洋戦争が終わった夏 昭和20年8月22日樺太から小樽に向かっていた引揚船3船がソ連軍潜水艦の攻撃を受け、1200人余の乗員・引揚者が留萌沖の海底に没した。

 
 
 キャンプ場に戻ると、小学生の子二人を連れた夫婦がデイキャンプをやっている。彼らは旭川からここへ来て海岸で遊びバーべキュウを楽しんでいる。そのうちに妻さんが紙皿に入れた焼肉を持ってきてくれる。「今、お寿司を食べたばかり」と言うと、「それじゃ夕飯に」と言って今度はおにぎりをくれた。次いで、子供がはしをもってきてくれ、さらに夫さんが保冷剤を持ってきてくれた。
 
 義母が生まれ育った旭川の人は心優しい人です。ちなみに、既に他界した義父も旭川生まれの旭川育ちであり、その間に生まれた娘 私の妻も心優しい女(ひと)です・・・?
 
 
 
素晴らしい夕陽が現れた。一日待った甲斐がありました。

 
 
 
 第21日 7月22日(月) 曇       走行99km 累計2,206km
 旧豊浜小学校               道の駅「はぼろ」(羽幌町)
 
 50年前の北海道サイクリングで、小平村の豊浜小学校の校長先生の官舎に泊めてもらったことがある。その後数年間先生と年賀状の交換をしていたが、いつしか途絶えてしまった。
 その後小平村は町制をしいて小平町になり、豊浜小学校は1981年に小平町立鬼鹿小学校に統合されてしまった。
 
 学校は無くなってしまったが、何か学校の痕跡があるかと思いその学校を探しに行った。国道232号線日本海オロロンライン豊浜バス停留所からほんの100mほど入った所に学校の跡地があった。校舎や官舎は既に取り壊されていたが、門柱だけが残っていて「小平村立豊浜小学校」と書かれている。
 たまたま付近で草刈りをしている70歳代がいたので、声をかけたらこの人は豊浜小学校の卒業生で、校長先生のことを知っていた。

  
    
門  柱                     校長先生の家族と
 
 
 
 道の駅「羽幌」で隣に停まった車は千葉県の柏ナンバーだった。柏さんは夫婦で北海道を旅行していて、時々山登りをしているとのこと。明日は雨竜沼湿原から暑寒別岳に登る予定だそうだ。先年に私は雨竜沼湿原へ行っているので、少しだけアドバイスをしてやった。そのうちに、奥さんがそうめんを茹でてくれて、これがとても美味しかったです。
 この夫婦は中東やアフリカ・南米などに旅行したことがあって、いろいろ興味深い話を聞かせてもらいました。
 
 


次の週 へ      もくじ へ