'13 ぶらり北海道

 

第2週1
(7/9〜7/12)
大 沼
小幌駅
オタモイ海岸
小樽三角市場

 

 
 
 第8日 7月9日(火)雨のち曇   走行0km 累計1,157km  自転車17km 
 大沼湖畔サイクリング               東大沼キャンプ場

 このキャンプ場は大沼湖畔にあってとても雰囲気が良い。あいにくの天候なので駒ケ岳は雲の中であるが、鳥のさえずりがいい。
 
 キャンプ場にはいろんな人が来ている。自転車で走って来てテントを張っている50代の外国人の夫婦(たぶん?)、函館ナンバーのキャンピングカーの70歳代、この人は1ヶ月のうち1週間は函館の自宅にいて3週間はここで過ごしている。 軽自動車のルーフにロードレース仕様の自転車を載せた長野県松本から来た66歳。この人はここに来てから2週間、毎日自転車で大沼湖を一周しているが、松本さんはそろそろここを発つそうだ。


 

 
 
 夜半から降り出した霧雨は降ったり止んだりしているので、車内で写真の整理やHPの更新作業。PCのバッテリーが乏しくなったので、JR大沼公園駅前にある「大沼国際交流プラザ」へ移動して、PCを充電しながらPC操作ををしているうちに薄日が差してきた。
 
 急いで自転車を車から取り出して大沼湖一周のサイクリングに出発。道は平たんで行き交う車も少なく、とても走りやすい一周14kの道である。途中のコーヒー店でコーヒーを飲み、温泉に入ったりあちこち寄り道したので、自転車のメーターは17kになっていた2時間半のサイクリングでありました。


大沼国際交流プラザ
 

 

 
 
 
 第9日 7月10日(水)雨のち晴    走行186km 累計1,343km 
 小幌駅                  道の駅「まっかり」 (真狩村)
   
 JR室蘭本線長万部から室蘭に向かって二つ目に物凄い駅がある。北海道には「秘境の駅」と言われる駅がたくさんあるが、これほど物凄い駅はないだろう。道路が通じてないので、車では行かれず汽車か漁船でなければ行かれない。トンネルとトンネルの間のわずか150mの間にちょこんとあるのだが、鉄道マニアの鉄ちゃんや鉄子さんに絶大の人気がある小幌駅。
 
 静狩駅に車を停めて、汽車に乗ること9分で小幌駅、入れ違いに鉄ちゃんが一人この汽車に乗った。なるほど〜〜納得だ。ホームがあるだけで駅舎はない、無論人っ子一人いない。通過する特急列車や貨物列車は頻繁にあるが、この駅に停まるのは一日に下り5本、上り3本だけ。
 海岸に出てみようとしたが、雨で道が滑るし足元が危うい。保線小屋があるが鍵が掛かっていて中に入れない。暇つぶしにケイタイでメールを送ろうとしたが、ケイタイは圏外だ。屋根の庇の下で雨を避けて待つこと2時間半、やっと上りの汽車が来た。
 
 そもそもなんでこんな所に駅があるのかと言うと、信号所と保線作業のために駅が設置されたそうだ。昔、こんな所に数年間にわたってホームレスの男が居着いて、彼は小幌仙人と呼ばれていたそうである。

 

  静狩側(函館側)トンネル入り口


  礼文側(苫小牧側)トンネル入り口


  やっと汽車が来た



 
 
 第10日 7月11日(木)晴       走行74km 累計1,417km 
 余市福原漁場  運上家          道の駅「よいち」(余市町)
 
旧余市福原漁場
 北海道の日本海沿岸は、古くからニシン漁の漁場として知られ、余市もニシン漁で賑わっていた。福原漁場はその当時の番屋を保存したものであり、国指定の史跡に指定されている。
 明治時代に福原家が経営していた番屋は、広い敷地に主屋、石蔵、米味噌倉、網倉などが修復して保存してある。ガイドの説明によれば中程度の番屋だそうだが立派なものであり、当時の繁栄ぶりがうかがえる。、

主屋(親方家族と漁夫が寝起きしていた)
 

米味噌倉(漁場の食事に使用する米・味噌・醤油等を保管していた)
 
 
 
旧下ヨイチ運上家
 松前藩は渡島半島の南端にあって、農業に経済的基盤をおくことが出来ない藩だった。そのため、蝦夷地の砂金や木材等を松前にやってくる交易船からの税金を主な収入としていた。
 交易は運上金を払った商人が請け負うようになり、それを管理するのが運上家であり蝦夷地に約80ヶ所もあった。幕府は一時期蝦夷地を直轄したことがあり、遠山金四郎の父も一時ここで目付け役をしていたそうだ。

 

 
 
 
 第11日 7月12日(金)晴    走行55km 累計1,472km 自転車5km
 オタモイ岬 小樽三角市場              道の駅「よいち」(余市町)
 
オタモイ海岸
 小樽の市街地から西へ約10k余のオタモイ海岸へ来ています。北海道の日本海側一帯は昔ニシン漁で栄えた地であり、オタモイもそのうちの一つである。
 昭和50年ごろに「石狩挽歌」という歌が流行っていた。なかにし礼が作詞し北原ミレイという歌手が歌っていた。
    燃えろ篝火 朝里の浜に 海は銀色 ニシンの色よ
    ソーラン節で 頬そめながら わたしゃ大漁の 網を曳く
    あれからニシンは どこへ行ったやら オタモイ岬の ニシン御殿も
    今じゃさびれて オンボロロ オンボロロー
    かわらぬものは 古代文字 わたしゃ涙で 娘ざかりの 夢を見る
 
 「オタモイ」とはアイヌ語で、「砂浜のある入り江」という意味で、昔は断崖の上に立派な鰊御殿が建っていたそうだが、昔の面影はまるでなく、人っ子一人いない寂しい海岸です。

 
     
 
 
 
 小樽駅のすぐ近くに三角市場と呼ばれる市場がある。昭和23年頃に7〜8軒の露天商が店を出したのが始まりで、土地や家の形が三角の形をしていることから「三角市場」と名づけられた。
 市場は観光客も多く賑わっている。市場の中の食堂でウニ・イクラ丼を食べていたら、隣に座ったのは中国人観光客だった。

 

 

 

 
 



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