北海道ぶらり旅

 第 11 週  8/1〜8/7 
 雄武〜名寄〜サロベツ原野〜宗谷〜クッチャロ湖〜紋別〜湧別




 第71日 8月1(日)  雨    走行 128km  累計 6,592km
 雄武〜興部〜名寄 

オホーツク海沿岸の興部と名寄を結ぶ旧国鉄名寄本線は、大正10年に全通し住民の足となっていた。しかし、国鉄合理化のあおりを受け住民の反対運動も空しく平成元年4月に廃止になった。西興部駅は鉄道資料館として保存され、館内には当時の品が展示され屋外にはラッセル車や蒸気機関車D51の動輪が展示してある。


宗谷岬で日本列島徒歩縦断のシニアに出会ったが、名寄では福岡から来た68歳のサイクリストに出会った。自転車や徒歩は若者だけだと思っていたが、シニアも若者に負けずに頑張っている。
彼は、福岡から小樽までフェリーで来て日本海側を北上し、宗谷岬から南下してきたとのこと。これから道央・道東を経て北海道を一周するとのことだ。現役時に何をやっていたかなど語ることはないが、その物腰や語り口などから、かなりの地位にあった人と見受けられた。




 第72日 8月2日(月)  晴れ    走行 120km  累計 6,712km
 名寄〜音威子府〜中頓別町


名寄は日本の稲作の北限

宗谷本線音威子府駅 中頓別町郊外のバス停留所




 第73日 8月3(火)  晴れ     走行 99km  累計 6,811km
 ピンネシリ岳登山〜サロベツ原野兜沼

道の駅「ピンネシリ」脇の三吉神社の鳥居が登山口である敏音知岳は標高704mの山で、一般的にはピンネシリ岳と呼ばれている。ピンネシリはアイヌ語で「男の山」という意味。
登り始めてすぐに樹林の中に巨木がある。日本の巨木100選に選ばれた「千本シナ」は、1ヶ所から10本もの株が生え放射線状に幹が広がっている。山頂には広島から来た夫婦がいたが、広島県の某鉄鋼会社を定年退職した人。この会社は元々川崎に生産拠点があったが、昭和40年代に広島県福山にも工場進出している。
登山口 千本シナ
山頂の標識 山頂にある三吉神社の祠


7月下旬に宗谷岬に行ったとき、あいにく北側に雲がかかっていてサハリンを見ることが出来なかった。日本国内から外国を見ることが出来る数少ない岬なので、またまた宗谷岬へ行くことにしてこの日は兜沼のキャンプ場泊り。
キャンプ場のスタッフは1週間前に泊った私のことを憶えていてくれて、嬉しいことに「○○さん」と声をかけてくれた。




 第74日 8月4日(水)  晴れ     走行 144km  累計 6,955km
 兜沼〜宗谷丘陵〜クッチャロ湖

今日こそはサハリンを眺められるだろうと3回目の宗谷岬。上空は晴れ上がっているのだが、北方向は晴れていない。43キロ先のサハリンはうっすらと島影らしきものが見えるだけである。三度目の正直にはならなかった。

宗谷丘陵の風車群は青空の下、くるくる回っている。そんな風景の中を、東京から来た大学生9人がアップダウンの激しい丘陵を元気に走っている。彼らは北海道一周中であり、女の子も真黒に日焼けして走っている。








クッチャロ湖に沈む夕日




 第75日 8月5日(木)  晴れ     走行 42km  累計 6,997km
 クッチャロ湖〜ウソタンナイ砂金〜クッチャロ湖

浜頓別の街から15キロほどのウソタンナイ川上流で、明治31年に砂金が発見されて、ゴールドラッシュが起こった。ウソタンナイ砂金採掘公園では昔ながらの「ゆり板」と「カッチャ」を使った独特の砂金掘り体験が出来る。




 第76日 8月6日(金)  晴れ     走行 271km  累計 7,268km
 クッチャロ湖〜雄武〜紋別

1週間前に訪れた雄武町上幌内の廃虚の集落のことを知りたくて雄武町役場へ行くと、役場の職員は親切に教えてくれた。
明治40年代に開拓が始まり大正元年には小学校が、戦後すぐに中学校も開校した。しかし、昭和30年代後半から過疎化により児童数が減少し昭和54年に中学校が廃校になり、平成2年に小学校も廃校になった。最後まで残った4世帯6人が平成19年に雄武市街地に移ったので、現在は無人の地区になっている。

雄武町役場

紋別の流氷科学センターには氷点下20℃の部屋に冬に運び入れた流氷が展示してあり、シャボン玉が凍るのを見て子どもたちが歓声を上げている。




 第77日 8月7日(土)  曇り      走行 92km  累計 7,360km
 紋別〜鴻之舞〜遠軽〜上湧別

紋別市街地から南へ20キロほどの上藻別にある「旧上藻別駅逓所」は官設の駅逓所として大正15年に建てられた。駅逓所とは人馬継立と旅人宿泊など運輸・通信・宿泊を一体とした明治以降の北海道独特の制度による建物である。

鴻之舞は大正5年に金鉱が発見され戦前から戦後にかけて東洋一の富鉱金山として栄えたが、昭和48年に閉山した。最盛時従業員4,600人、人口14,600人の街は見事に撤去され、かろうじて煙突1本だけが残り鉱山の跡を留めている。すぐ近くの旧上藻別駅逓所には鉱山で使われたトロッコが保存されている。


湧別町の郷土博物館では明治30〜31念に湧別原野に入植した399人の屯田兵による開拓の様子や暮らしぶりを展示してある。
(屯田兵とは、兵士を遠隔地へ派遣し、平常は農業を営むかたわら軍事訓練を行い、いざ戦争が始まったときには軍隊の組織として戦うことを目的とした土着兵のことです。)

湧別郷土博物館



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