北海道ぶらり旅

 第 10 週  7/25〜7/31 
 サロベツ原野〜宗谷岬〜枝幸〜雄武





 第64日 7月25(日)  晴れ    走行 0 km  累計 6,029km
 上サロベツ原野サイクリング ( 54km )

「はるばると尋ねきた 北の広野  緑なす草原 碧き空よ 〜〜〜」と鳥羽一郎が歌っているサロベツ原野は、今日も青い空が広がり海を隔てて利尻山が見える。

サロベツ原野からの利尻山






農場のトラクター


朽ちたサイロ




 第64日 7月26日(月)  曇一時小雨    走行 96km  累計 6,125km
 下サロベツ原野  

今にも降り出しそうな雨雲がたれこんでいる空だが、兜沼からほぼ一直線に下サロベツへ向かっている農道を走って行く。一車線のこの農道は所どころにすれ違いのための待避所があるトラクターなど農作業車優先の道路。
宗谷丘陵の風車は数は多いもののランダムに建っていたが、オトンルイの風車は一直線に建っていて、強い風に風車は勢いよく回っている。

オトンルイの風車群


牧草ロールを作り終えたトラクター


サロベツ原野北端の「兜沼」のキャンプ場にテントを張って3日目、明日早朝から雨との天気予報なので、自転車をたたみテントを撤収して、この夜は車中泊。
キャンプ場の管理棟ではキャンプ用品のレンタルや食品も売ってるし食事も出来る。この日の夕食はジンギスカンの定食を用意してもらう。さらに、嬉しいことにこの管理棟ではインターネットが使える。




 第65日 7月27日(火)  雨    走行 0 km  累計 6,125km
 停滞

夜明けとともに降り出した雨は時間とともに強くなり、ラジオは雷雨注意報が出たと報じている。昨日のうちにテントを撤収したのは正解だった。
一日中管理棟内の休憩所でテレビを見たり、写真の整理やHPの更新をやっていた。

北海道の親切な人たち
コインランドリー
恵庭で初めてコインランドリーで洗濯をしたときのこと。説明書きを読んでいる時に洗濯物の乾燥にに来た女性が「どうしたんですか?」 「初めてなのでよくわからないんですよ。」 「これだけの洗濯物の量だったら、この洗濯機がいいですよ。」と言って、洗濯機・乾燥機の扱い方を教えてくれた。「私の洗濯物の乾燥が終わった頃にまた来ますが、その間に困ったことがあったら私の家に来てください。」と、家を指差した。
道案内
リチウム電池を買うために豊富町のホームセンターの場所を買い物帰りのおばさんに尋ねた。「私は隣町に住んでるので分からないから聞いてきてあげる」と言って、近くのお店に入って行った。出てきたおばあさんは「ホームセンターへ行かなくても、近くにに電気屋さんがあるよ」と言って、電気屋さんまで連れていってくれた。




 第66日 7月28日(水)  雨    走行 41km  累計 6,166km
 サロベツ原野兜沼

朝から雨が降り続いていたが、11時過ぎに小降りになったので出かける。
稚内から4っ目の無人駅「兜沼駅」はきれいな駅だったが、となりの「勇知駅」はすごい駅だった。廃車になったディーゼルカーを半分に切断して駅舎にしたものである。しかも、大分年数を経ているもので所どころペンキが剥げ落ちている。ちょうど稚内からの汽車が来たが下りる人も乗る人もいなかった。
兜沼駅 勇知駅




抜海漁港

ずーっと雨続きで今日も出発出来ず、兜沼キャンプ場で5日目の夜を迎えた。




 第67日 7月29日(木)  雨    走行 46km  累計 6,212km
 サロベツ原野兜沼

朝から激しい雨が降っていて、大雨・雷・濃霧警報、降り始めてからの降水量が150oになり、土砂災害警報も出ている。今日もこのキャンプ場に停滞。昼前に雨の降り方が少し弱くなったので、車で30分ほどの豊富温泉へ行って、温泉に浸かってからホテルのレストランで昼食。

兜沼キャンプ場はサロベツ原野の一番北側にある兜沼の畔にある樹間のキャンプ場で、豊富町の施設だが管理は民間に委ねられている。管理棟には管理人が朝7時から夜8時まで常駐していて、映画俳優名高某似のイケメン・スッピン美女・コンピュータに詳しい青年、みんな好感のもてる人である。
ファミリーキャンプ キャンプ場に現われたキタキツネ

今夜もこのキャンプ場泊りで、ついに6連泊になってしまった。




 第69日 7月30日(金)  晴れ     走行 90km  累計 6,302km
 サロベツ原野〜宗谷岬〜猿払村

久しぶりに雨が上がり宗谷地方の天気予報は日中晴れである。サハリンの島影を見たくて再び宗谷岬にやって来たが、北側は雲に覆われていて45キロ先のサハリンを眺めることは出来なかった。これでは、もう一度来なければならないかなー。

ここは日本の最北端なのでいろんな旅人が来る。日本列島縦断徒歩は若者ばかりだと思っていたらかなりの年代の人がペナントをかざしている。埼玉県から60日間で歩いてきた人だ。埼玉県某市の市議会議長をやっていた62歳で、奥さんと息子さんが飛行機でやって来て岬で出迎えている。奥さん曰く「仕事をおっぽり出してこんなことやってるんですよ。」 でも、その顔はうれしそうだった。この後、一度埼玉県に帰ってから少し休み、今度は飛行機で沖縄へ行ってから北上する予定だそうである。


昭和14年12月ソ連船「インディギルカ号」が猿払村の沖合で座礁転覆した。猿払村民が救助にあたり、300人は救助されたが700人が亡くなった。その冥福を祈るインディギルカ号慰霊碑はオホーツク海を望む海辺に建っていて、台座の石はソビエトから贈られた花崗岩である。




 第70日 7月31日(土)  晴れ    走行 162km  累計 6,464km
 猿払村〜枝幸〜雄武町

雄武の町から道道60号線を名寄に向かって40分ほど走った所が雄武町上幌内地区。この地区は明治40年代に開拓が始まったが、昭和から平成に時代が代わった頃から離農者が相次ぎ現在では廃虚の集落と化している。かってあった小中学校は門柱を残すのみであり、郵便局はかすかに「上幌内郵便局」と読み取れる標柱が残っている。棟続きの職員の宿舎らしき玄関には「御用の方はベルを押してください」と書いてあるが、むろんベルは鳴らず誰も出てこなかった。
厳しい環境の中で苦労して開拓し、この廃虚になってしまった家の中では家族の団欒もあっただろうと思うと、少し複雑な想いが残った廃虚巡りでありました。
上幌内小中学校の校門 郵便局と棟続きの宿舎


雄武の町の「道の駅」にはパソコンコーナーのような一角がある。ここでメールのチェックやHPの編集をやっていたら、中国娘が3人現われてパソコンを開いてなにかやっている。そのうちに一人が携帯電話を取りだして辺り構わぬ大きな声でしゃべりだして延々と続いて終わる気配がない。堪りかねて「静かに話しなさい」と言ったが、日本語が分からいのかそのふりをしているのか、相変わらず大きな声で喋っている。私の口元に人差し指を立てて「シー」と言ったがこれも効果なし。メモ用紙に「静」の字を書いて娘の目の前に出したら、その娘は外へ出て行って、パソコンコーナーに再び静けさが戻ってきた。

帰り支度を始めたら、別の娘が片言の日本語で「オジサン ドコカラ キタノ?」 神奈川県と言っても分からないだろうから「東京」。 「リョコウデスカ?」 これまでに撮った風景写真をPC画面で見せてやったら「キレイナ シャシン」と褒めてくれた。



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