赤坂宿・有松宿への旅


( 平成27年1月7日〜8日 )


 豊橋でJR東海道線から名鉄本線に乗り換えて御油で電車を降りた。
 御油は東海道五十三次 江戸から数えて35番目の宿場です。駅からほんの少し行くとゆるやかなカーブをえがく見事な松並木が続いている。約600mにわたり300本のクロマツの老樹であり、現在残っている東海道の松並木の中では代表的なものである。歌川広重の絵や十辺舎一九の東海道中膝栗毛では弥次さん・喜多さんが化かされたと書かれている松並木です。




 御油宿から東海道53次36番目の宿場・赤坂宿に入る。東海道53次で宿場間の距離が一番短いのが御油宿・赤坂宿の間でありその距離は2キロしかない。


 赤坂宿に着いて先ず目に入ったのが、紅里交差点の赤坂宿公園に復元された高札場のモニュメント。
 徳川幕府の法令布告を掲示する場所を高札場と言い、赤坂宿の高札場は宿の中央で最も人目につきやすい場所にあった。高札場は、高さ2間(3.64m) 間口2間 奥行1間(1.82m) 瓦葺であり、高札1枚はそれぞれ厚さ7cm、長さ90〜280p、幅50pのヒノキ板に墨書きされたものである。

 

高札には次のように書いてある。
 
一、親子兄弟夫婦を始め諸親類にしたしく下人等に至る迄あはれむべし・・・・・事
一、家業を専にし懈る事なく万事其分限に過へからさる事
一、いつわりをなし又は無理をいひ惣て人の害になるべき事すべからざる事
一、博奕の類一切に禁制の事
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  右篠々可相守之若於相背者可被行罪科者也
         正徳元年六月  奉行



 今回の赤坂宿行きの目的は、まもなく廃業してしまう旅籠「大橋屋」に泊まることであった。
 大橋屋は旧屋号を鯉屋といい、創業は慶安2年(1649)、現在の建物は正徳6年(1716)の建築といわれている。赤坂宿の旅籠の中では大旅籠に属し間口9間奥行23間ほどであった。入口の見世間・階段・2階の部屋は往時の面影を留めている。
 歌川広重が描いた「東海道五十三次・赤坂」は、この大橋屋の中庭を描いたものである。ただし、画にあるソテツは現在では近くのお寺に移植されている。


 建築後300年になる大橋屋の正面入り口は往時のままである。かっては赤く色が付いていた大きな提灯は煤けているが、大書した「大橋屋」の文字が墨痕鮮やかである。

   


   



 昔はなかっただろうガラスがはまった戸を開けて入って行くと、そこは江戸時代のままの光景である。上がり框は年季の入った入った造りであり、昔の旅人はここで草鞋の紐を解いたのだろう。現在の旅人もここで靴を脱ぐ。
 2階に上がる階段は急であり手摺りが付いていない。 

   


   


 旅人が泊まる2階の部屋はかなりきれいです。天井がかなり低く大きな人は鴨居に頭をぶつけそうです。
 旅行者の中にはこの部屋に泊まりたいという人もいるそうですが、厠(トイレ)が別棟であること、階段が急であること等から、棟続きの別の部屋に泊まってもらうことにしていると主は言っていました。


   



 大橋屋は後継者もいないことから今年3月で旅籠を廃業し、その後は歴史資料館として一般公開すると主が言っていました。


 この日はこの旅籠の別棟に泊まったが、この別棟は階段には手摺りがついていて部屋は冷暖房完備でトイレはウォシュレットでありました。
 大橋屋の主夫婦は高齢で食事の用意が出来ないので、近くのうなぎ屋を予約してくれた。この店も昔は旅籠をやっていたそうで、お店の所どころにそのような雰囲気が漂っている。




 2日目は名電赤坂駅から名鉄に乗って1時間弱で有松に着いた。

 有松は東海道の池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく)と鳴海宿(なるみしゅく)の間の茶屋集落で絞り染めの産地として栄えた。絞り染めは伝統工芸として今も受け継がれ、繁栄した商家の街並みは往時の繁栄を今に伝えている。
 卯建(うだつ)を設けた和瓦の屋根、塗籠造(ぬりごめづくり)、虫籠窓(むしこまど)といった特徴のある家屋が街並みを形成している。絞り商の豪壮な屋敷構えと絞りに関わる人々の住む町屋が建ち並ぶ街並みは国が選定する「伝統的建造物群保存地区」に選ばれている。







詳細 ⇒ 有松の街並み


 有松の街並みや有松絞りの工房を見て絞りの体験をしようかとも思ったが、時間がかかるようなのでこれは諦めることにした。

 この後、名鉄で刈谷へ行きJR東海道線に乗り換えて浜松で途中下車してうなぎを食べて帰ってきた2日間の三河への青春18きっぷの旅でありました。


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