田  老


( 平成27年7月5日訪れる )

 2011年3月 三陸沿岸は東日本大震災で大きな被害を受けた。宮古市田老町も死者181人、被災建物1,691戸、漁船の流失855隻。  一瞬にして街が無くなってしまった。  


街が無くなった   右手の建物は仮設の漁業施設



 宮古観光協会では田老町の現状、津波の災禍を後世への教訓とするため、「学ぶ防災」という名のガイドを行っている。スタッフが軽自動車で津波の爪痕を案内してくれ、その後、旧田老町役場の会議室で津波発生時の生々しいDVDを上映してくれた。この画像はあまりにも生々しいためマスコミでの公開はされていない。     

震災後に造られた製氷施設
この壁面に明治・昭和・平成の津波の高さが表示してある




 10年程前に陸中海岸(当時は、こう言っていた)を車で旅したことがある。
 田老の町で防潮堤の内側に車を停めて、現役を退いた元漁師の老人と防潮堤を背にして話しをしたことがある。この老人は子どもの頃に昭和の津波を経験していた。
 この老人が平成の大津波に遭ったかどうかは知る由もないが、「この防潮堤があるから田老は安心だ」と言っていた言葉が印象に残っている。老人はこの防潮堤を「万里の長城」と呼んでいた。  
   
万里の長城と呼ばれていた防潮堤は無残に破壊された・・・・・・・自然の力は計り知れない



 防潮堤は嵩上げ工事をしているところで、工事完了した部分の高さは4.5メートル。そこには頑丈な扉が取り付けられている。この写真は閉じられているところだが、通常は開かれていて津波が発生すると電動で閉じられる。
 



たろう観光ホテル
 津波はこのホテルの3階まで達した。1〜2階は鉄骨の骨組みだけが残り3階も建具は壊された。宮古市はこのホテルを震災遺構として保存することにし、現在補強工事等を行っている。
 津波発生時に、このホテルの最上階から撮影したビデオを見たが、凄まじい映像でありました。    
 



三陸鉄道田老駅  津波はここまで押し寄せ鉄道線路・プラットホームは被害を免れたが、駅舎は壊れた。田老駅であることを示すものはホームへ通じる通路に掲げてある「田老駅」だけ。駅舎跡は道路が拡幅され自転車の駐輪場があるだけです。    
 



田老町の高台に建つ仮設住宅と仮設の商店街
 仮設のお店は3棟あり、一通りのお店が揃っていてトコヤが2軒もあり、学習塾もありました。さらに居酒屋も店を開いていました。
 ここは元々は田老町の野球場やテニスコート等があった所だが、震災時は自衛隊やボランティアの活動拠点になっていた。   
 



 石巻の大川小学校では大勢の子どもが津波の犠牲になったと報じられている。
 一方、田老の小学校では地震が起きたとき、親から津波の恐ろしさを聞いていた高齢の用務員が、若い教師に「子どもを高台に連れて行け!!」と怒鳴っていた。このこともあって、ここの小学生は津波の難を逃れた。    
小学校脇の津波避難路の階段 階段から更に高台へ行く道 津波防災の町宣言の碑



 現在、田老では高台の山を切り崩して平地にし宅地を造成している。その一部は既に造成を完了し区画割りした土地を分譲し、建物の建築が始まっている。近いうちに漁師は海まで車で通勤して漁業することになると、観光協会のガイドは言っていました。
 そして、陸中海岸国立公園という公園名を、環境省は「三陸復興国立公園」と変えている。国を挙げての震災復興です。   


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