六合村赤岩
JR吾妻線 長野原駅から赤岩行のバスに乗る。草津温泉行きは頻繁に出ているが赤岩行は一日に4便しか出ていない。しかも1便は小学校が休みの日は休便で、地方へ行くとよくある運航形態だ。20分ほどで赤岩入口の停留所に着いた。さらに20分ほど歩いて着いた所が戸数60戸の旧六合村赤岩の集落。
六合村は漢字は易しいが読み方は難しく、これで”くにむら”と読む。今は中之条市に合併されたが六つの集落が合わさって出来た村だった。ここは国(文化庁)の「伝統的建造物群保存地区」に選定されていて、江戸時代末期から養蚕が盛んで現在でも農家の建物が残っている。
集落に入って先ず目に入ったのが水車小屋や火の見櫓、赤土で塗り籠めた塗り屋造りの建物。集落の中ほどにひときわ目を引く3階建ての塗り屋造りの大きな建物が建っている。この家は幕末の蘭学者 高野長英が匿われていたと伝えられている。
ここには土産物屋商店など一軒もない。あるのは清涼飲料の自動販売機だけだ。缶コーヒーを買って飲んでいたら、マイクロバスが停まってランドセルを背負った学校帰りの小学生が数人降りてきた。マイクロバスはスクールバスだった。子どもたちが口々に「こんにちわ」と挨拶してくれたが、都会ではなかなかお目にかかれない光景である。
写真を撮りながら進むと神社前の長椅子に座って井戸端会議ならぬ道端会議の二人のお婆さんが「こんにちわ」と言って話しかけてきた。この二人は72歳と90歳で、20代で嫁に来てからずーっとこの集落で暮らしている。昔やっていた養蚕や、ここでの暮らしや習わしを話してくれた。そのうちに72歳が「家へ寄ってお茶を飲んでいきなさい」と言う。
誘われるままに縁側でお茶を飲んでいたらご主人が出先から帰ってきた。ご主人も一緒にお茶を飲みながら、私が「川崎から来た」と言ったら、次のことを話してくれた。
太平洋戦争の末期、国の命令で軍需産業の一翼を担っていた日本鋼管(現JFE)が六合村で鉱山開発をして鉱石を採掘していた。戦後鉱山は閉山になり、
この集落に住む何人かが、昔、日本鋼管(現JFE)川崎製鉄所の扇島の埋め立て工事に関わっていた。
縁側に座ってお茶を飲んでいると、ご主人が出先から帰ってきて、次のことを話してくれた。
この集落に住む何人かが、昔、日本鋼管(現JFE)の扇島の埋立て工事に関わっていたこと、
太平洋戦争の末期、国の命で日本鋼管が六合村で鉱山開発をしたこと、
その後、鉱山は閉山になり 跡地に農場を造り豚の飼育を始めたこと等。
その豚肉を使って製品化したのが六合ハム(クニハム)で、製品化には日本鋼管が関与しているそうです。
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