新 井 家

( 高 麗 郷 古 民 家 )


( 埼玉県日高市  平成30年7月12日 )

帰化人のふるさととも呼ばれる日高市高麗本郷(こまほんごう)。巾着田を望む小高い所に背後の屋敷林、道路際を石垣に囲まれた古い家が建っている。
新井家は江戸時代末期に建てられた古民家であるが、現在は日高市が維持管理し無料で公開している。




新井家は江戸時代末の文化・文政・天保時代に高麗本郷村の名主を務めていた。
明治時代になると地域の行政事務の責任者として戸長を置くことになった。戸長はかっての庄屋・名主などから選ばれることが多く新井家も戸長を務め、後に高麗村の村長を務めた。
新井家は名主、戸長、村長としてこの地域の政治を担っていた。



新井家入口の石垣





母屋の建築年代は江戸時代末から明治時代前半と考えられているが、建物は数度にわたる増築により当初の形式が大きく変わっているようです。
木造の入母屋造り2階建て桁行23.2m、梁間8.2mで、平成5年に茅葺きから瓦葺きに改修されています。






母屋に隣接する客殿は新井家に残っている古文書と建築様式から明治39年に建築されたと言われていて、入母屋造りの2階建てで桁行12.8m、梁間5.8mであり、平成10年に茅葺きから瓦葺きに葺き替えられています。
1階中央部に式台を設け屋根は向唐破風(むこうからはふ)で彫り物を配して格式の高い造りになっている。
南側には客間を設けて、床、違い棚、付き書院の座敷飾りを施し本格的な書院造になっています。


客殿(左)  母屋(右) 







違い棚、付き書院の座敷飾りを施した書院造の客間







客殿の屋根の造り




母屋の座敷



母屋の縁側から客殿の式台を見る



客殿の前の庭



新井家の間取り (パンフレットから)




 
高麗郷が帰化人の故郷と言われる由縁

 はるか1300年前、日本に渡来した高句麗(こうくり)の人々によっ築かれた都・高麗郡(こまぐん)。それは現在の埼玉県西部に位置する日高市及び飯能市の一部にあたる。
 何故、日本に高句麗の人々(高麗人・こまびと)の都が造られたのだろうか。

 高句麗は紀元前37年頃から668年頃まで古代中国東北部から朝鮮半島北部に君臨した国の名前である。当時、朝鮮半島南部には百済(くだら)、新羅(しらぎ)といった国が割拠していた。しかし、中国・唐と新羅の連合軍によって百済と高句麗が滅び、朝鮮半島は新羅によって統一された。
 この時、日本に亡命してきた高句麗の人々は、甲斐、下総、上総、常陸、下野(しもつけ)、相模など東国に分散した。
 故国滅亡によって国へ帰れなくなったのが、高句麗王の使者として日本を訪れていた玄武若光(げんぶじゃっこう)だった。日本に残ることを余儀なくなった若光は、後に日本の朝廷から高句麗王族として高麗王若光(こまおうじゃっこう)の姓を与えられ、高麗郡の祖になったと伝えられています。
 東国に散らばっていた高麗人を集めて武蔵野国に建都された高麗郡は、明治29年(1896)に入間郡に編入されるまでその名を歴史に残した。




古い名家のページへ