椎  葉



 壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は、海・陸を経て各地に離散した。今も平家落人の地と言い伝えられるところが、九州、四国を始め全国にあると言われている。九州山脈のもっとも奥深い椎葉、五ヶ荘は地理的にも格好の隠れ里とみられ、代表的な平家落人の里として言い伝えられている。
( 宮崎県椎葉村  平成24年4月5日〜6日 )










鶴 富 屋 敷

 壇ノ浦の戦いで敗れた平家の残党の一部は、豊後から阿蘇を越えて椎葉の里に逃れてきて、この地に住み着くようになった。源氏は那須与一の弟の那須大八郎を大将として追討軍を派遣した。
 平家の落人を追討するため椎葉に陣を敷いた大八郎であったが、この土地の落人は既に土着してしまい、平家再興の意志がないことを知る。もはや討伐する理由がないため、大八郎は残党は全て征伐したと鎌倉に報告し、この土地に滞留することを決めた。
 大八郎の身の回りの世話をしている者の中に、平清盛の孫娘と言われる鶴富姫がいた。いつしか二人は恋に落ち、やがて鶴富姫は子供を身籠もった。しかしその時、鎌倉から大八郎に対して帰還の命が下った。
 鶴富姫が産んだ子は女児であったため鶴富姫は椎葉に残り、その後婿を取り“那須”の姓を名乗ることとした。以後、椎葉の村は那須家が治めたとされる。
 現在でも鶴富姫の末裔である那須家は続いており、その住居は「鶴富屋敷」として国の重要文化財として残されている。





椎葉厳島神社
 壇ノ浦の戦いで破れた平家一門討伐の命を受けた那須大八郎が、椎葉山中での平家残党の叛意なき姿を哀れみ、平家尊々の安芸の宮島、厳島神社の守護神を勧請し建立したものと言われている。





こいのぼり(幟には「椎葉恋」の文字が・・・)





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