酒谷川が大きく蛇行する立地を格好の外堀とした伊東氏の小さな城下町。城下は飫肥(おび)城の南に東西7街路約850メートル、南北3街路約900メートルの範囲で区画されていた。城に近い方から上級、中級家臣、町家、下級家臣の屋敷という町割り。 |
飫肥(おび)は、飫肥藩伊東家5万1千石の城下町として栄えた町であり、飫肥城を中心とした江戸時代の武家屋敷町、町人町、寺町などの町並みが多く残されていて、文化庁の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。 城下町は三方を酒谷川が半円状に囲み、城に接する地域は一段高くに高禄の侍屋敷があり、南部は中級侍屋敷、その南に町屋、さらに南に下級侍屋敷が配され、東西に寺院が建っています。 侍屋敷は、道路に沿って石垣が積み上げられ、正面に薬医門・長屋門、その奥に生垣等を設けた瓦葺屋根の主屋を配しています。 |