八幡山城が完成したのは、安土城が焼失してから3年後の天正13年(1585)だった。城下には信長によって安土に集められた多くの商人たちが移住し賑わいをみせた。 ところが、間もなく時代は徳川時代へと移り、近江八幡は幕府直轄の天領として治められるようになって、城下の商人たちは幕府の通行手形を手にして全国を商いして回った。これが近江商人の中核をなす八幡商人の誕生であり、近江八幡の町並みには今でも当時の面影が残っています。 |
JR近江八幡駅の北2キロの新町辺りは古い町並みが保存されている。江戸時代末期から明治にかけて建築された商家が整然と残るこの町並みは、近江八幡の往時の姿を残していて、国の伝統的建造物群保存地区に選定されています。 町家と商家の見越しの松が印象的でした。 |
近江商人は、天秤棒を肩に全国に活動を広げた。彼らの理念は、買い手よし・売り手よし・世間よしの「三方よし」であった。 |
西川利右衛門家は、江戸時代から明治時代にかけて栄え、主に畳表や蚊帳(かや)等を扱う商家だった。しかし、昭和5年に子孫が絶え、現在は近江八幡市が所有し管理ている。 主屋は宝永3年(1706)に建てられた京風の建物で、質素な中にも洗練された意匠を残している。そして、天保年間(1681〜1683)に建てられた蔵は全国的にも珍しい3階建ての土蔵で、往時の西川家の隆盛を偲ばせている。 |
現在は八幡教育会館になっている旧伴家住宅は、江戸時代に八幡町の一等地であった京街道と新町通りの角地に建っている。 伴右衛門は江戸時代初期から活躍した八幡商人の一人で、主に畳表や蚊帳を商い財を成した。現在残っている伴家住宅は7代目が文政10年(1827)から10数年の歳月をかけて建てたもので、後に、明治になってから当時の八幡町に譲渡してからは小学校・役場・女学校として利用され、現在は八幡教育会館となり内部が公開されています。 |
近江八幡が商家町として栄えるようになったきっかけは、天正13年(1585)に豊臣秀吉の甥の秀次が八幡山に城を築いたことに始まる。秀次は周囲に琵琶湖へつながる堀を掘らせその外側南部を城下町として整備した。町割りは京都の町を参考にして碁盤目状に行い、その整然とした近江八幡の道は当時のままに残っている。 八幡堀は近江八幡の代表的観光名所になっていて、しばしば映画やテレビドラマの撮影場所になっている。 |
新町通りから東へ500m程行った仲屋町は八幡山城下形成時に仲買商人の町として出来た町で、町名は商売の仲買を意味する「すあい」に因んでいる。また、市助(いちすけ)町と呼ばれることもあるが、これは豊臣秀吉の奉行衆の一人だった一柳一助直末が居住していたことに由来すると言われている。 電線が地中化されている新町通りに比べると、この通りは電信柱が少々うるさい感じでした。 |