岩  村

 岐阜県恵那市岩村町の岩村本通りは、平成10年に全国で48番目の国(文化庁)の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。  ( 平成27年3月12日訪れる )




 岩村は江戸時代に東濃地方の政治・経済・文化の中心として栄えた城下町です。保存地区は城下町の町屋地区として形成された地区であり、現在でも地元の商店街として商いが営まれていて、人の息遣いが感じられる生活感のある街並みです。















木村家 勝川家 土佐屋
 木村家は江戸時代中期から末期に栄えた問屋で、藩の財政が困難のときに御用金を調達していて、藩主自身が木村家を訪れていたと言われている。藩主出入りの玄関・表通りに面した武者窓・欄間・茶室等は町屋としての歴史を偲ばせてくれる。
 勝川家は屋号を「松屋」といい、江戸時代末期に台頭した商家です。2階建てで室内は書院・茶室・使用人部屋などがあり、往時の暮らし向きを伝えています。
 土佐屋は染物業を営んでいた商家で、建物は平成8年から3年かけて修復工事を行い、土蔵の展示室、庭の天正疎水などを公開してる。

この後、緩い坂の道を歩いて岩村城跡へ行った。



岩 村 城 跡
 岩村城は、大和の高取城(奈良県)備中の松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つに数えられている。城は江戸諸藩の城の中でも最も高い所(標高717m)に築かれ、高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城で、霧の湧き易い気象までも城造りに活かされており、別名「霧ケ城」とも呼ばれていたが、現在は城壁が残っているのみである。。
 前日に降った雪で足元がかなり危うく、時おり雪が舞っていて寒いので早々に引き揚げる。

  

女城主 岩村城の城主は遠山景任で、武田信玄の武将、秋山信友によって攻められたが織田信長の武将、明智光秀の援護もあり、守り抜いた。  景任が病没すると信長は5男で当時6歳の坊丸(織田勝長)を遠山氏の養子とした。景任夫人修理は信長の叔母にあたる女性(通称はおつやの方など)で幼少の養子に代わって女城主として差配を振るった。  


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