稲  荷  山


( 長野県千曲市  平成29年3月29日 )


 江戸時代、稲荷山は善光寺街道の宿場町で、物資の集積地として栄え、商人たちが多く集まった町でした。明治以降は生糸と絹織物商を中心に賑わっていて、土壁、漆喰壁を基調とした色調と佇まいが、周りの田畑や山の緑と溶け合い、落ち着いた雰囲気を醸し出している町です。


 稲荷山は、千曲市の北端、市の南北を流れる千曲川の左岸に位置していて、近世末期から近代にかけて商業地として栄えた東西200m、南北800mの範囲の地区です。

 天正10年(1582)頃に稲荷山城が築かれ、城の西側に南北に延びる町が形成された。慶長3年(1598)の廃城後、江戸時代には北国街道西往還(善光寺街道)の宿場町として発展し、19世紀初頭以降次第に商家町としての性格をもつようになった。その後、弘化4年(1847)の善光寺地震、地震直後の大火によって町は壊滅的な被害を受けた。震災復興後、近世末期から近代にかけて生糸や繊維製品の集散地としてこの地方有数の商業地として繁栄しました。
 
 町の中央を街道が南北に通り、中ほどに街道が屈折する「鍵の手」が施されていて、町の周囲に近世以来の水路や地割が多く残っている。敷地は、街道に面して短冊形に割られ主屋が建てられている。
 そして、主屋の背後には土蔵や付属屋が建てられ、裏通りには土蔵が建ち並び土蔵の間に門が構えられている。
 現存する建物は弘化4年の震災後に建てられた建物で、震災直後の建物は中二階で2階の柱や軒裏を壁で塗りあげいる。また、明治中期以降のものは本二階建てで分厚い壁を軒まで塗りあげた重厚な建物になっている。




明治11年に建てられた元銀行
現在の八十二銀行の本店だった建物



明治11年に建てられた元銀行
現在の八十二銀行の本店だった建物



明治11年に建てられた元銀行
現在の八十二銀行の本店だった建物




極楽寺の参道や裏小路には土蔵が建ち並んでいる



極楽寺の参道や裏小路には土蔵が建ち並んでいる




明治初期に建てられたこの建物は、
現在はNPO法人「稲荷山 蔵の会」の茶舗田中園を
営んでいる。




ここでは珍しい3階建ての建物



 呉服商 山舟 (明治10年頃に建てられた切妻平入瓦葺きの建物)
 県下屈指の呉服反物商として繁栄し、町内一の立派な耐火建築で往時の姿を残していて、現在も居宅として使われている。蔵が1号から8号まで完全な形で残っている。真下の水路は中町と荒町の境で、稲荷山城の堀跡と言われている。


呉服商 山舟



呉服商 山舟



呉服商山舟の表入り口



稲荷山宿 蔵し館
 幕末から明治期にかけて「商いに国境なし」という「稲荷山魂」を説き、生糸輸出の先駆者となった「カネヤマ松原製糸」の松原源之助が築いた「松原邸」を修復したものです。主屋は古い町家の生活空間を再現していて、西側2階建ての倉庫はかっての稲荷山の生業や生活の様子を物語る民族的資料を展示している。


稲荷山宿 蔵し館



稲荷山宿 蔵し館



旧料亭 松葉屋
 白壁造りの重厚な建物で昭和14年まで料亭を営み繁盛していた。当時は常に三味線の音が聞こえていたそうで、今でもそんな雰囲気を漂わせる佇まいが残っている。


料亭 松葉屋



料亭 松葉屋




なまこ壁の土蔵



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