赤沢宿は、江戸時代の頃から日蓮宗身延山と七面山を結ぶ身延往還の宿場として栄えていた。 現存する伝統的な家屋は18世紀後半から明治・大正期にかけて建てられ、その大半が主屋である。平屋建て小屋組み構造の古い建築様式を残し、かっては板葺き屋根の集落だった。 往時の講中宿が建ち並んでいて、石垣・坂道・畑地などがよく調和し、国の伝統的建造物群保存地区に選定されている。 |
明治の最盛期には戸数40戸ほどの集落に9軒の旅館があり、蔵や民家にも宿泊するほど繁盛していた。しかし、交通の便が発達するにつれて、昭和60年代には旅館は6軒になり、そして、平成17年には江戸屋だけになってしまった。 江戸屋は江戸後期(天保13年)に主屋を建築し、明治10年に2階を増築したそうです。 |
江戸屋は、元々は長野県望月宿で旅館をやっていたが、江戸屋の7代目が赤沢に移って身延山から七面山への講中の客を泊める旅館を始めた。 今年93歳になる第27代目の大女将は、20歳で嫁にきてからずっとこの江戸屋の奥向を取り仕切っている。今ではカチッとひねれば煮炊きが出来るが、昔は風呂焚きも煮炊きも大変だったとの言葉に実感がこもっていました。 |
江戸屋の表看板 | 講中札 | 27代目の女将さん |
現在では旅館を営業しているのは江戸屋一軒だけになってしまったが、他の旅館は営業しなくなってしまったものの綺麗な佇まいで残されていて、家人が居住しているようでした。 |
赤沢では参詣した講中が宿泊の印として残していく講中札を板まねぎと呼んでいて、旅館の軒下に掛けていく。この札は講名や個人名・屋号などが書かれた札で明治初期から流行り始めた。 |