金 屋 町


 金屋町は、かつては高岡銅器産業の中心として栄えたていた。慶長16年(1609)加賀藩の藩主・前田利長が高岡城を築城、高岡の町を開いたとき町の繁栄を図るため、慶長16年(1611)に、7名の鋳物師を礪波郡西部金屋村(現・高岡市戸出西金屋)から現在の金屋町に移住させたため、高岡銅器産業の中心となった。
 現在も千本格子造り(地元では「さまのこ」と言う町並みが残り、石畳の道と相まって美しい町並みを形成していて、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

( 富山県高岡市  平成29年5月17日 )





 鋳物師らが金屋町に移った頃は、日用の鍋・釜といった鉄器を作っていたが、後に地域の需要に応える形で銅器生産、多彩な金物生産に移行していった。銅器の生産が始まったのは天保・弘化の頃であり、江戸時代中期には鋳物師の数は日本一となった














 格子のマス目は魔物を見張ると言われていて、魔除けの意味があります。細かく数が多いマス目は、子孫繁栄の思いも込められていて、権威や伝統の象徴とされている。



























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