島田は東海道53次の宿場であり、昔風に言えば駿河国の一番西側にあり、東海道53次の難所大井川を渡ると近江国(遠州)です。ここには大井川に由来する歴史的な光景があります。 |
徳川幕府が倒れ、明治2年(1869)徳川幕府を護衛していた武士たちが、大井川右岸 牧之原台地を開拓してお茶作りを始めた。当初は苦労の連続であったが、お茶の栽培は順調になり人々はお茶の出荷と共に島田へ出かけるようになってきた。島田へは川の流れが速い大井川を小舟で渡ならければならず大変危険であった。 そこで、時の静岡県令(現在の県知事)に橋を架ける願いを出し、明治12年(1879)に蓬莱橋(ほうらいばし)が架橋された。 |
しかし、蓬莱橋は木橋であるため大井川の洪水の度に被害を受けてきた。そこで、昭和40年(1965)に橋脚をコンクリートに代えて今日の姿になった。 |
全長897.4m、通行幅2.4mの蓬莱橋は平成9年(1997)に「世界一長い木造歩道橋」としてギネスブックに認定された。 |
蓬莱橋の欄干はとても低く、下を流れる川の流れは速い。 この橋はずっと賃取り橋と呼ばれていて、現在でも渡橋料100円がかかる。 |
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と謡われた大井川は、駿河と遠州を分けていた。大井川の東側の河原町付近の道筋は、当時の地割が残っていてここに往時の川会所・札場・番宿が復元されている。 旅人は大井川を渡るには川札を川会所で買い、川越人足に手渡してから、人の肩や連台に乗って川を越えた。川札の値段は、毎朝、川の深さと川幅を測って決められていた。 |
江戸時代の初期に宿駅伝馬の制度が定められ街道整備が行われた。しかし、大きな川には橋がほとんど架けられず、旅人は舟か徒歩で渡るしかなかった。特に大井川は渡舟も禁止されていたので、川越しの手助けを生業とする人々が現れ、街道の通行量の増加とともに渡渉の方法や料金を統一することになった。 |
川越え人足の数は初期は大井川両岸の島田・金谷にそれぞれ350人と定められていたが、幕末の頃には約650人になっていた。人足は裸で腰に二重廻しと称するものをしめ、お互いに川越取と呼び合い相撲の関取に一脈通じると自負していた。 |
大井川を渡るには川会所で川札を買わなければならない。 川札の値段は水の深さと川幅によって決められる。 水深は股通とか乳通と呼び、脇通(136p)を越えると川留めになった。 (島田市パンフレットから) |
川越しの制度は明治維新まで続いたが、明治3年(1870)に大井川の通舟が許可されたことに伴い、川越しの制度は廃止された。 制度の廃止後、川会所や札場、番宿の建物は大井川通舟の事務所や学校などに利用され移転を繰り返したが、昭和41年(1966)に大井川川越し遺跡として国の指定を受けたことに伴い、現在の地に移築復元された。 |