( 横須賀市 平成30年9月17日 )
1853年に久里浜の沖合にペリーが率いるアメリカ海軍の艦隊が来航したが、当時の久里浜は小さな漁村の砂浜で黒船が接岸出来なかった。幕府は浦賀が黒船の接岸出来そうなことから浦賀に誘導して接岸させて上陸させた。しかし現在では一般にペリーの上陸は久里浜とされ上陸記念碑は久里浜にある。 その後1860年旧暦1月13日に品川を出帆した勝海舟率いる咸臨丸が1月19日に浦賀港から出港して太平洋を横断している。 |
東叶神社 京浜急行浦賀駅から観音崎への道を進むと浦賀の港を見下ろすように叶神社が建っている。浦賀には浦賀湾を挟んで二つの叶神社が向かい合っている。こちらは湾の東側にあることから東叶神社(ひがしかのう じんじゃ)と呼ばれている。 寺の縁起によれば、「平家物語」に登場する文覚上人が源氏の再興を願って房総半島の鹿野山に修行し、もし自分の願いが叶えられるなら良い土地を選んで神社を建てることを誓った。養和元年(1181)にこの願いが叶えられそうになり、神社を建てる場所を探した結果、頼朝ゆかりの千葉・鹿野山の対岸である浦賀の地が選ばれここに石清水八幡宮を勧進した。 文治2年(1186)壇ノ浦の戦いで平家が破れ、源氏の世になる大きな願いが叶ったことにより「叶明神」の称号が与えられた。 文覚上人は元は鳥羽天皇に仕える武士だったが、出家し諸国の霊山で修業しその効験を知られていた。後白河法皇対する荘園寄進の強要により頼朝が伊豆に流され、平家嫌いでもあった上人は頼朝と出会い源氏の挙兵を勧めたと言われている。 また、別の言い伝えによれば、元禄5年(1692)に浦賀村が東と西に分かれたときに西浦賀村の叶神社を本宮、東の叶神社を若宮と呼んだと言われている。 |
浦賀の渡し舟 東叶神社がある東浦賀から西叶神社へ行くには港をぐるっと回ると40分ほどかかるが、ここには渡し舟がある。これに乗ると大人200円で3分ほどで西浦賀に着く。舟が対岸にいるときは呼び出しボタンを押すと来てくれる。 |
浦賀のシンボルにもなっているこの渡し舟は浦賀に奉行所が置かれた享保10年(1725)頃に始まった長い歴史を持っている。 江戸時代には舟1艘舟頭2人で東西浦賀の人々の生活に欠かせない舟だった。明治10年代になると東西浦賀の町内会が共同管理するようになり、舟賃は一人3厘で営業時間は朝6時から夜10時までで夜間は料金倍額だったそうです。これが公営交通としての渡し舟の誕生です。 その後、大正6年に浦賀町が町内会から5,000円で営業権を取得したが、この頃が渡し舟の最盛期であり、1日の乗船客が1,000人にも達していた。そして、昭和18年に浦賀町は横須賀市と合併し、渡し舟は横須賀市営になり、現在は横須賀市が施設を民間事業者に貸し付けて運航している。 |
西叶神社 西浦賀の鎮守であり、本来の名称は叶神社です。しかし、東浦賀にも叶神社があり、区別のために西叶神社と呼んでいる。 現在の社殿は天保13年(1842)に再建されたものです。 社殿をとりまく200を超えるたくさんの彫刻は、後藤利兵衛という阿波国(千葉県)の彫刻師の若いころの作品であり、利兵衛はこれらの仕事が認められ、その後幕府の彫刻師として雇われました。 |
陸軍桟橋 西浦賀の渡船場から少し行くと陸軍桟橋と呼ばれる桟橋があり、今は整備されて釣り公園になっている。この一画に船の形を模した「浦賀港引揚記念の碑」が立っている。 ここは太平洋戦争終了後に南方や旧満州からの引揚者56万人が懐かしい日本への引揚第一歩をしるした所です。 |
昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に返還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。私たちは再び繰り返してはならない戦争により悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。 横須賀市 |