猿島は横須賀沖に浮かぶ東西200m南北450m周囲1.6kmの無人島です。この島は明治14年から昭和20年まで一般の人が立ち入ることが出来なかった旧日本軍の要塞の島でした。
要塞は外敵を防ぐための防御施設であり、東京湾口の守りを固めることを目的に明治時代中期に全ての施設が島の外からは見えないようにして政府が施設を建造した。
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猿島高角砲跡遺跡配置図
トンネルの入り口
トンネルの入り口
幕末、外国船の来航に伴い江戸湾の防備のために房総・三浦半島に台場が造られた。江戸湾に入る外国船は猿島・富津近くを通らなければならないので、幕府は弘化4年(1847)に、島内の島頂部に大輪戸台場、島北部に亥ノ崎台場、島東部に卯ノ崎台場の3ヶ所の台場を造り、その防備を川越藩に任せた。 |
砲台は陸軍が明治14年に起工し明治17年に竣工した明治時代に建設された砲台である。第1砲台が2p砲座2門、第2砲台が24p砲座4門などが備えられ、東京湾への敵艦船の進入阻止、横須賀鎮守府、横須賀海軍工廠がある横須賀港の防御を任務としていた。 |
見学者用に路面が整備されている
砲台へのメイン道路である幹道は全長300mの切通しであったりトンネルになっている。
切通しは幅4.5mで高い所は9mから4mあり、切通しに添って兵舎や弾薬庫が土に掘り込まれるように造られている。
トンネルは幅4m全長90mほどあり、天井がアーチ状の入口になっていてフランス積みの煉瓦が施されている。
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トンネル内部(路面が整備されている)
壁面はフランス積みの煉瓦
トンネルから外に出る所
トンネルの外の弾薬庫(路面が当時のままになっている)
トンネルを外れた所にある兵舎
猿島高角砲台
それまでの台場は外敵の艦船を目標とするものであったが、第2次大戦期には防空のために海軍は昭和16年に島の北部に8p高角砲4門、昭和20年には12.7p高角砲2基4門を配備した。この高角砲は横須賀に来襲した米軍機を迎撃した。なお、横須賀空襲は戦争末期の昭和20年7月であった。 |
砲台の跡
砲台の台座
余談になるが・・・・・
嘉永6年(1853)ペリー提督率いる黒船が浦賀へ来航し錨を降ろした。ペリーは付近の海を見るためにカッターボートを降ろして対岸を見て回った。その時に観音崎を回ったところに美しい小島ー猿島ーがあるのを見つけた。ペリーはこの島を「Pt.Rubcon」と命名した。 |
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