上野・寛永寺


( 東京 上野  平成30年2月11日 )

 寛永寺は天台宗の別格大本山のお寺であり、寛永2年(1625)に徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため江戸城の鬼門(東北)に当たる上野の台地に建立されました。山号は東の比叡山を意味する「東叡山(とうえいざん)」、寺号 寛永寺は寛永年間に創建されたことによっていて、比叡山延暦寺を見立てています。







 今はさして広くない寛永寺の境内ですが、最盛期には現在の上野公園を中心に30万坪の広大な敷地を有した巨大な寺院でした。しかし、徳川幕府と尊王攘夷派が戦った戊辰戦争で上野が戦場になり、その大部分が失われてしまいました。
 明治政府から敷地は没収されてしまったが、明治12年(1879)に復興が認められると根本中堂が再建されました。根本中堂は「本堂の語源にもなったといわれる寺院の中心となる建物です。


  
根本中堂の内部                       襖に描かれた絵







この鬼瓦は寛永寺本坊に据えられていた鬼瓦です。
左 根本中堂鬼瓦 高さ248㎝ 横幅325㎝
右 本坊表門鬼瓦 高さ113㎝ 横幅118㎝


 




根本中堂前の境内に早咲きの枝垂れ梅が





根本中堂に通じる道路



清水観音堂

 上野の不忍池を見下ろす台地に建っている清水観音堂は寛永8年(1631)に東叡山寛永寺の開祖 天海大僧正によって建立されました。
 二代将軍徳川秀忠から寄進された上野の台地に、平安京と比叡山の関係にならって江戸城の鬼門(東北)の守りに寛永寺を開き、その後上野の台地に堂舎を次々に開いた。清水観音堂は京都の清水寺に見立てたお堂です。
 観音堂は京都の清水寺の春海上人から寛永寺の天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ同じ舞台造りになっています。
 初めは上野の台地の摺鉢山に建てられたが、後に現在の地に移築されたものです。





本  堂



京都の清水寺を模した舞台造りの観音堂と月の松



月の松


歌川広重は江戸時代末期の浮世絵師であり、最晩年に「名所江戸百景」を描いていて、その中に清水観音堂の月の松を描いている。
上野清水堂不忍ノ.池 上野内月の松



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