佐倉 武家屋敷

 佐倉は鹿島台の台地上にある城下町です。江戸城防衛の要として、徳川家康の命により慶長15年(1610)から7年をかけて台地の西端に佐倉城が築かれた。石垣や外堀などを造らなくても、家康が「天下の名城」と讃えた要害堅固な城だった。しかし、明治維新後に廃城令により城は撤去され、今では土塁・天守台などを残すのみです。
 でも、わずかに藩士の屋敷が残っていて、その界隈には往時の面影を彷彿させるものがあります。       ( 千葉県佐倉市  平成28年1月14日 )

武家屋敷通り
 JR佐倉駅から市街地を抜けて、緩い坂道を上がって20分程で武家屋敷が並ぶ通りに着いた。電柱がなければそのまま江戸時代に戻ったような雰囲気の通りです。
 この通りには4棟の屋敷が残っている。1棟は住居として利用されているので非公開だが、県や市の有形文化財に指定されている3棟が公開されている。江戸時代の武家屋敷は、その大半は藩が所有し藩士の俸禄や職務内容に見合った住宅を貸し与えていた。この通り(鏑木小路)には上中級の藩士の屋敷が多かった。






旧河原家住宅
 河原家住宅の建築年代は定かではないが、弘化2年(1835)の古文書にはこの住宅が存在したと記されている。建築様式・構造・部材の風触等から佐倉に残っている武家屋敷の中では最も古いものと考えられている。
 この屋敷だけではなくいずれの屋敷も母屋の裏手には畑があり、武士も登城しないときは畑を耕していたようです。 








旧但馬家住宅
 建築年代は明らかではないが、文献や絵図により文政4年(1821)から天保8年(1837)の間に建築されたと推定されている。この住宅には室内に上がることが出来、当時の生活調度品が展示してあり、座敷には鎧・兜も展示してありました。








旧武居家住宅
 武居家住宅は「天保の御制」と呼ばれる居住の制度で100石未満の藩士が住む住宅であったようです。幕末にこの屋敷に居住していた田島伝左衛門は90石の禄高の藩士であった。
 
 これらの屋敷は、所有者から寄贈されて現在佐倉市が維持管理している。茅葺き屋根は虫が湧くので時々竈の火を焚いているし、10数年に一度葺き替えをしているとボランティアの女性が言っていました。






ひよどり坂
 佐倉城は小高い所にあり、武家屋敷通りも町人町より小高い所にある。藩士は登城するにも町人町へ行くにも坂を上り下りしなければならなかった。・・・ひよどり坂・薬師坂・うるし坂・やかん坂・くらやみ坂・・・
 なかでも登城の際は藩士はひよどり坂を通ったようです。この坂は武家屋敷通りとお城を直結する道で、江戸時代とほとんど変わらない竹林に囲まれた道です。、





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