愛新覚羅溥傑仮寓

( あいしんかくらふけつかぐう )


( 千葉市稲毛区  平成29年3月7日 )


 明治中期以降、保養地として多くの文人墨客が訪れた稲毛は、海岸線の松林を中心に別荘・別邸が建てられた。この家は大正初期に東京の実業家が建てた家である。
 この家は、保養地としての稲毛の歴史を伝える和風別荘建築であるとして、平成28年に千葉市の有形文化財に登録され公開されていてボランティアガイドが丁寧に説明してくれた。





  昭和10年代には、愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)がこの家に住んでいた。
 溥傑は清朝最後の皇帝 愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の実弟であり、昭和12年に昭和天皇の遠縁である嵯峨浩と結婚しこの家で新婚生活を送っていた。




庭から見た主屋



 溥傑は、明治40年に生まれ昭和4年に日本へ留学し昭和10年に陸軍士官学校を卒業した。この間に満州国が建国されていて、卒業後満州国陸軍に入隊した。
 その後、昭和天皇の遠縁にあたる女性との縁談が関東軍の主導で進められ、昭和12年に溥傑は嵯峨浩と結婚し稲毛のこの家で新婚生活を送っていた。この結婚は明らかに政略結婚であったが、二人は大変仲睦まじかったそうだ。







 昭和20年日本の敗戦とともに満州国は崩壊し、溥傑はソ連軍に捕らえられソ連東部のシベリアの強制収容所に収容された。昭和25年に中華人民共和国に送還されたが、その後、中国八路軍に連行されハルピンの戦犯収容所で中国共産党による再教育を受けた。
 その後、模範囚として釈放され、文化大革命を乗り越え全人代常務委員会委員を務めるなど社会復帰を果たした。
 そして、平成6年に北京で87年の波乱の生涯を終えた。遺骨は溥傑の生前の希望によって、日中双方に分骨され、日本側の遺骨は山口県下関のお寺に妻 浩と共に祀られている。





格天井に吊られたシャンデリア  床の間には溥傑自筆の書


溥傑は、中国の現代三筆に数えられる書家として、多くの書画を残している。
この書には稲毛に居を構えた当時の思いを詠んだ漢詩が2首書かれている。
新婚時代を「我を忘れてしまうほど幸せだった」
昭和62年に亡くなった浩について「いとしい妻の姿は今はどこに」

これは平成2年に溥傑本人から千葉市に贈られたものです。





亀甲格子の欄間



主屋の縁側


 溥傑・浩の夫婦には2人の娘がいて、次女は学習院大学2年生だった昭和32年に同級生と伊豆天城山の山中でピストルで心中した。これが世に「天城山心中」とも「天国に結ぶ恋」と言われている心中である。
 そして、長女は関西の実業家と結婚し現在も兵庫県西宮で娘(溥傑・浩夫婦の孫)と共に住んでいる。




庭園から見た主屋



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