軍 艦 島


( 長崎県  平成24年5月8日 )

 長崎半島の沖合4.5kmに浮かぶ南北480m、東西160m、周囲1.2kmの小さな島 端島(はしま)はその外観が軍艦に似ているので軍艦島と呼ばれている。明治の頃から海底炭鉱として栄え最盛期には5,300人もの人が住んでいたが、石炭の採掘量の減少により炭鉱は閉山し現在は無人の島になっている。






 1800年代初頭に端島で石炭が発見され、その後明治23年(1890年)に三菱が島全体と鉱区の権利を取得して本格的に石炭の発掘が開始された。そして、石炭の出炭量は徐々に増加するとともに島は急成長し、昭和35年(1960)には5,300人もの人が住むようになった。当時の人口密度は日本一で東京の人口密度の9倍と言われるほどになった。  島内には病院や学校・病院・神社・学校・映画館などが建ち並んでいたが、建物と建物の間は大変狭かった。
 繁栄を極めた端島だったが、出炭量の減少とともに国のエネルギー政策が石炭から石油に移ったこともあって、昭和49年に端島鉱山は閉山した。そして、この年全ての住民が島を離れそれ以降端島は無人島になった。
 




 長崎港の港から「軍艦島コンシェルジュ」と書かれた大きなクルーザーに乗って出港した。しばらくすると、右手に軍艦島と同じように炭鉱として栄えた高島が見えてきた。高島は炭鉱が閉山になった現在でも700人余りが住んでいるそうだ。

長崎港から軍艦島へ渡るクルーザー



 クルーザーは長崎港から約30分で軍艦島に近づいた。上陸する前にクルーザーは島の周りを一周して、ガイドが廃墟と化した建物をあれは鉱夫の居住区だとかこの建物は学校だとか病院だとか説明してくれる。


軍艦島の全景









島の西側には病院が建っている。危険と隣り合わせの炭鉱の島なので欠かせないものなのでかなり立派な建物である。







 7階建てのこの建物は端島小中学校で、1階は校長室・職員室、2〜4階が小学校、
5〜6階が中学校で、7階には講堂や図書室があった。そして屋上は運動場になっていたそうです。



端島小中央奥の白い建物は幹部社員用の住宅であり
見晴らしが良く室内に風呂もあったそうだ




白い灯台が建っている。炭鉱は24時間操業だったので灯りが消えることがなく灯台は必要なかったが、炭鉱が閉山した翌年の昭和50年にこの灯台が建てられた。



軍艦島へ上陸
 ぐるりと軍艦島を一周してからクルーザーは島の南東部にあるあまり上等でないドルフィン桟橋に接岸した。防波堤がないので波の高い日は上陸出来ない日もあるそうだがこの日は比較的波は穏やかであったのは幸いだった。それでも下船するときには船員が一人づつ手を差し伸べてくれた。





島内の見学は@ドルフィン桟橋からC見学広場までの通路内に限られている




崩れ落ちたこの島の中枢部だったレンガ造りの事務所建物



レンガ造り中央やや右にあるのは第2竪坑坑口入口 
ここから坑内エレベーターで海底の鉱山に入って行った







炭鉱労働者の住宅
 海底炭鉱での仕事という危険な仕事なので労働者の所得水準は大変高く、昭和30年代に"三種の神器"と呼ばれていたテレビ、洗濯機、冷蔵庫は都会ではこれ等の普及率は未だ低かったがこの島では大半の家庭がを所有していた。






2本づつ並んだ柱は石炭を貯炭場に運ぶベルトコンベアの支柱



 軍艦島を離れるとき、クルーザーは島の反対側に回ってくれた。
 ちょうど陽が傾きかけている時で、逆光気味で撮った写真はまさに軍艦のようでありました。





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