# 6

屯田兵の孫

 昔、高校時代に日本史の授業で屯田兵について学んだことがあった。明治時代初頭に北方警備と北海道開拓のために北海道各地に屯田兵の兵村が置かれていたが、札幌・旭川等各地に資料館があって、そこには当時の備品や写真パネルが展示されていた。そんな中でオホーツク海沿岸の湧別町の資料館の職員が厚岸に現在でもその兵屋が残っていることを教えてくれた。 

 2013年8月 カキの産地として名高い北海道東部の厚岸の町で、厚岸郊外の太田屯田兵屋にカーナビをセットして車を走らせた。道道14号厚岸標茶線から未舗装の農道に入ると前を軽自動車がノロノロと走っている。急ぐ旅でもないのでこの軽自動車の後ろをくっついて行った。なんと、軽自動車は私が目指している屯田兵の兵屋(屯田兵の宿舎)の前で停まった。軽自動車を運転していたのは兵屋を管理しているかっての屯田兵の孫だった。老人は何か冊子をもって車から降りてきた。


 明治時代、北海道の開拓と北方警備のために明治政府は北海道内各地に屯田兵の兵村を置いたが、厚岸湾の沿岸部から15キロ程の太田地区にも明治23年に兵村が置かれ440戸の兵屋が建てられた。この太田兵村には日本海沿岸の小藩の元武士とその家族が入植していた。

 この兵屋は屯田兵が暮らす宿舎として標茶集治監(刑務所)の囚人によって建てられたもので、17.5坪の木造平屋建てで、土間及び六畳と四畳半の2部屋と居間・台所・便所からなっていて居間には炉が設けられていた。

 明治37年に屯田兵制度が廃止になった後、兵屋は払い下げられ元屯田兵の住宅として使用されていた。軽自動車を運転していた92歳の老人はこの家で大正9年に生まれここで育った。

 老人は兵屋に入って内部を案内してくれ、彼の祖父が明治時代に屯田兵として入植した当時のことを話してくれた。老人のお爺さんが入植した頃はこの辺りは未開の原野であり、原野の大木を引き抜くのに木の根っこを馬に曳かせて引き抜いていたとそうだ。そして、大正生まれのこの老人も学校まで1時間かけて通い、明治・大正時代に開拓されたとはいえそれは兵屋の周りのわずかな範囲であったので、学校から帰ってからは原野の開墾をするなど過酷な少年時代を送ったのであった。昭和になってわずかな機械力が入り徐々に周辺は開墾されて耕地面積が徐々に増えていった。 

 その後昭和になってから老人の家族は隣に新しい家を建て兵屋は物置小屋として使っていた。その後、住宅は何回か建て替えをしたが兵屋は相変わらず物置小屋として使っていた。

 昭和46年に厚岸町役場からこの兵屋を譲り受けたいとの話があり、老人はこの物置として使っていた元兵屋を町に譲り、厚岸町はこの兵屋を解体し、同じ場所に復元して北海道指定の有形文化財として一般に公開していて、老人とその家族が管理している。                                                  

2013,8,26

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