# 17          

大津波のその後 

 その後、多賀城市社会福祉協議会から震災ボランティアのお礼状が来て、その中に「いつの日か復興なった多賀城に来てください」とあった。

 大津波から4年経った2015年初夏に妻とともに多賀城へ行ってみたら、表向き街並みはきれいになっていてボランティア駐車場だった土地は整備されてマンションが建築中であった。

その後三陸鉄道北リアス線で宮古市田老へ向かった。気動車は一両編成で宮古を出ると三陸海岸を眺めながら走る。いたる所に津波のつめ跡を復旧する工事が進められている。しかし、その後はトンネルが続いてまるで地下鉄に乗っているようだ。

 田老駅で下車すると、そこは津波で駅舎がなくなってホームに通じる地下通路に駅名が書いてあるだけであり、駅前は建物がない草っ原で町がない。

 この日の宿「グリーンピア三陸みやこ」の送迎車が田老駅まで迎えにきてくれた。運転手は津波の跡を少しだけ説明してくれてから山王岩で車を停めてくれた。山王岩は津波で崩れたのではないかと心配されたがこの岩は崩れずに健在だった。

 田老の町の高台にあるグリーンピアは津波の被害に遭わず健在だった。この敷地の隣には仮設住宅が建っている。

翌日、グリーンピアの送迎車で田老駅まで送ってもらい、駅前で宮古観光協会の「学ぶ防災」スタッフと落ち合った。この日の見学者は私と妻の二人だけだったので、スタッフは軽自動車でやってきた。

 この津波で田老町も死者181人、被災建物1,691戸、漁船の流失855隻、街が無くなってしまった。宮古観光協会では田老町の現状、津波の災禍を後世への教訓とするため、「学ぶ防災」という名のガイドを行っている。スタッフが軽自動車で津波の爪痕を案内してくれた。

 宮古観光協会では田老町の現状、津波の災禍を後世への教訓とするため、「学ぶ防災」という名のガイドを行っている。スタッフが軽自動車で津波の爪痕を案内してくれ、その後、旧田老町役場の会議室で津波発生時の生々しいDVDを上映してくれた。この画像はあまりにも生々しいためマスコミでの公開はされていない。 

 10年程前に陸中海岸(当時は、こう言っていた)を車で旅したことがある。
 田老の町で防潮堤の内側に車を停めて、現役を退いた元漁師の老人と防潮堤を背にして話しをしたことがある。この老人は子どもの頃に昭和の津波を経験していた。この老人が平成の大津波に遭ったかどうかは知る由もないが、「この防潮堤があるから田老は安心だ」と言っていた言葉が印象に残っている。老人はこの防潮堤を「万里の長城」と呼んでいた。万里の長城と呼ばれていた防潮堤は無残に破壊された・・・・・・・自然の力は計り知れない

 防潮堤は嵩上げ工事をしているところで、工事完了した部分の高さは4.5メートル。そこには頑丈な扉が取り付けられている。この写真は閉じられているところだが、通常は開かれていて津波が発生すると電動で閉じられる。

たろう観光ホテル  津波はこのホテルの3階まで達した。1〜2階は鉄骨の骨組みだけが残り3階も建具は壊された。宮古市はこのホテルを震災遺構として保存することにし、現在補強工事等を行っている。 津波発生時に、このホテルの最上階から撮影したビデオを見たが、凄まじい映像でありました。   

三陸鉄道田老駅  津波はここまで押し寄せ鉄道線路・プラットホームは被害を免れたが、駅舎は壊れた。田老駅であることを示すものはホームへ通じる通路に掲げてある「田老駅」だけ。駅舎跡は道路が拡幅され自転車の駐輪場があるだけです。 

田老町の高台に建つ仮設住宅と仮設の商店街
 仮設のお店は3棟あり、一通りのお店が揃っていてトコヤが2軒もあり、学習塾もありました。さらに居酒屋も店を開いていました。 ここは以前は田老町の野球場やテニスコート等があった所だが、震災時は自衛隊やボランティアの活動拠点になっていた。   

 石巻の大川小学校では大勢の子どもが津波の犠牲になったと報じられている。
一方、田老の小学校では地震が起きたとき、親から津波の恐ろしさを聞いていた高齢の用務員が、若い教師に「子どもを高台に連れて行け!!」と怒鳴っていた。このこともあって、ここの小学生は津波の難を逃れた。 
 

 現在、田老では高台の山を切り崩して平地にし宅地を造成している。その一部は既に造成を完了し区画割りした土地を分譲し、建物の建築が始まっている。近いうちに漁師は海まで車で通勤して漁業することになると、観光協会のガイドは言っていました。 

 そして、陸中海岸国立公園という公園名を、環境省は「三陸復興国立公園」と変えている。国を挙げての震災復興です。   

その後の田老の街 ⇒ 田老 (sakura.ne.jp)

 平成27年5月

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